編集後記

ソロモン戦のスケールイメージ

 158号と159号の2号連続で特集記事「激突 第三次ソロモン海戦」をお届けいたしました。
 従来の記事では二つの夜戦シーンだけをクローズアップする形のものが多かったところ、今回は、“なぜ、日本軍はこれほど大規模の水上部隊をこの戦闘に送らねばならなかったのか?”、そこに至る経緯を大塚好古さんに丁寧に描いて戴きました。無論、二つの夜戦シーンも、比較的近年の米側研究者による著作を援用して、まさに火煙の匂い立つような迫真のご執筆を賜りました。
 さて、121号編集後記にも記しましたが、私は過去に2回、米国アナポリス海軍兵学校を訪れる機会を得ました。そして、メモリアルホールにある同校出身戦死者の銘板を見て、対日戦における戦死者の突出した多さに、あらためて心を動かされたものでした。
 階級順に並ぶそのネームプレートの、上位に静かに肩を並べているのが、今回の記事「前半」でその戦死を描かれたD.キャラハン少将とN.スコット少将です。
 私が小学生のころ、最初にソロモン諸海戦のことを読んだのはサンケイ新聞社出版局から出ていた第二次世界大戦ブックス『ガダルカナル』でした。その中に登場するキャラハン少将は、その後に読むことになるいくつかの記事や書籍(第二次大戦ブックス以前に出版された古いものも含みます)の中では、「カラハン」と記されたり、「キャラガン」と記されていました。また、熟読していたクラシックLPのライナーノートの記述を信じて、これは指揮者「カラヤン」と同根で、古代ローマ期の「カラヤヌス」家が祖先に違いないと想像したり、この名前はその後も頭に残りました。アナポリスの銘板の前に立ったときは、『ようやくここへ参りました』と、一方的な慕情を覚えたものです。
 戦後出版された数々の戦記では、表記が固まるまでにバラつく固有名詞の表わし方だけでなく、数値で示せない距離感や面積にも不確実なものがありました。例えばガダルカナル島の広さは、“四国ほどの大きさである”と表現されたり、“房総半島と同じくらいの大きさである”と記されたものを読んだ記憶があります。これについては、大雑把なスケール比較でも四国より房総半島のほうがより近い面積だということが分かります。
 一時期、友人らとプレジャーボートを共同所有して、東京湾と相模湾を走り尽くしました。東京湾を抜け相模湾に出る時はいつも、『左に見える房総半島の先っちょがエスペランス岬、右に見える城ケ島がツラギ、大島がサボ島という感じだろうか』などと想像していましたが、実際にはサボ島は大島の半分ほどのサイズで、しかもうんと手前に位置することになります。
 正確にたしかめてみようと世界地図を開いても、東京湾・相模湾の地図とソロモン諸島の地図が比較可能なスケールで掲載されていることはなく、『鉄底海峡(アイアンボトムサウンド)は大体、相模湾ほどの広さだろう』ということで納得していましたところ、2000年代に入りGoogle EarthとGoogle Mapという優れたツールが利用できるようになりました。
 そこで、今回の記事作成を機に、スケールを合わせた略図でそのイメージを読者の皆様とも共有しておきたいと思います。
 まず第一図をご覧ください。
 ラバウルからショートランドまでがざっと500km、ガダルカナル島の端っこまでが1000kmですので、これを日本地図にあてはめて東京をラバウルと想定すると、ショートランドが徳島県鳴門市、ガダルカナルの端っこが鹿児島県枕崎市ということになります。ざっくり言うと、薩摩半島を占領したアメリカ軍は、同地を奪還せんと東京から飛んでくる日本海軍航空部隊や、淡路島の南あたりで艦隊を組んでやってくる水上部隊を迎え撃ったのです。
 次に第二図をご覧いただきますと、鉄底海峡の広さはまさに相模湾や播磨灘より少し狭いだけのほぼ同等サイズの水面だということが分かります。
 海上自衛隊の観艦式は、相模湾の東西間距離をほぼ使い切る形で展演されます。あなたが横須賀や横浜、木更津から乗って相模湾に出た観閲部隊の艦上から、一足先に出港して反航受閲のために初島の手前で反転回頭を始めた受閲部隊を双眼鏡で遠望するとき、それはサボ島を回って間近に迫った日本艦隊を、ルンガ沖の米艦隊から見ているのに近い距離感だと考えておけば、鉄底海峡という狭い水面で行われた数々の“激突”を少し肌身に感じることができるかもしれません。

(by 老兵バーク/歴史群像159号)

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