制作こぼれ話

「庄内秋田戦争の焦点のひとつ、官軍の大平山橋頭堡を歩く」
(歴史群像151号)

※本誌P109より転載。

姫神公園(羽形城)の位置。

雄物川の土手から見た大平山山塊。右端の尾根先が「姫神公園」である。手前は花火見物をする土手の斜面。

羽形城跡の堀切。

羽形城の縄張り図。大曲が見える東斜面に堡塁跡が多く残る。

 戊辰の古戦場には必ず痕跡がある。戦いを調べるには地形を知らなければならないが、地形は地図のみでは把握できない。そのため現地を訪れることになる。現地を歩いて初めて分かることも多いからだ。
 これまで奥羽の戊辰遺跡は、東京から近い白河方面や会津方面を多く観察してきたが、奥羽の戦いの全貌を知るため、昨年「神宮寺戦線」を観察しようと大曲(秋田県大仙市)に出かけた。
 有名な大曲の花火大会が行われる雄物川の土手に上がり、大平山(おおひらやま)山塊を眺めた。そこで「大平山橋頭堡」の痕跡が残る部分はどこか考えた。
新政府軍が橋頭堡を守るには、どこに陣地線を引くかである。大平山を中心に左右の尾根を利用し防衛線を敷くであろう。すると、その防衛線の東端はどこかで雄物川に接することになる。雄物川山塊の尾根は、大平山の北東約1500mで雄物川に接する。現在この尾根の先端部分の丘の上は「姫神公園」となっている。

 丘の上の公園までは自動車道路があり、駐車場も完備している。公園を歩いて驚いた。公園の北半分は、「堀切」「切岸」がよくのこる戦国期の城跡なのである。伝承では平安末期の安部氏に関連した城跡で「羽形城(松山城)」と呼ばれているものである。しかしその遺構を観察すると、その形状から平安期の城ではなく、戦国期の特徴を持っている。

 公園として整備されているので、観察しやすい。今回は戊辰戦争遺構の踏査が目的で、戦国の古戦場が対象ではなかったが、拾い物をした気分である。戦国の戦乱の中でここに軍事拠点を持つ必要があった集団のものだろう。その可能性については、別の機会にでも考えることとして、今回は戊辰遺跡に焦点を絞りたい。
 羽形城の丘から見ると、眼の下に雄物川が流れる。確かにこの地が大平山山塊の北東端である。ここは橋頭堡防衛ラインが、雄物川と接する位置になる。そうなるとこの城跡が、150年前の戊辰戦争で新政府軍が展開した場所と考えられる。城跡の大曲が眺められる斜面には、やはり戊辰戦争当時の「堡塁跡」が残されているではないか。城跡の範囲だけで6~7か所が残されている。ここに兵を配置すると、庄内軍が雄物川左岸を川沿いに侵攻するのを防ぐことができる。慶応4年(明治元年)8月19日、庄内軍は、大平山橋頭堡を攻撃している。橋頭堡の東側は、庄内軍の第一大隊が攻めている。この戦闘において、羽形城跡の堡塁で戦闘があったかは不明だが、第一線の防衛陣地であったことは事実である。
 戦国期と維新の時代の両方の遺構を残す羽形城跡を見ると、軍事的要地は時代を超えて利用されるということがよく分かる。

(文/藤井尚夫)

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