日本陸軍の戦術教範をどう読むか?(歴史群像126号)
昭和期における日本陸軍の戦術と用兵思想を研究する上で欠かせないのが『作戦要務令』ですが、その内容に関しては、戦後、様々な解釈や評価が続いています。そこで今回の「制作こぼれ話」は、『作戦要務令』をどのように読み解き、どう解釈するべきかについて、読者から寄せられた意見と、筆者からの回答を公開する形で、皆様にご紹介します。
■読者から寄せられたご意見
それは、P109の4段目にあります『戦闘綱要』と『作戦要務令』についての記述です。筆者である樋口氏は、
日本陸軍の将校たちは、「敵情はわからないことが多いから、行動は任務を基礎と
して敵情如何にかかわらず自主積極的にすべきだ」と教育・訓練で叩き込まれてい
る。とくに『戦闘綱要』が『作戦要務令』に改訂されるとこの傾向が強くなり、
『戦闘綱要』にあった「最も有利に」という文言は「積極的に」と書き換えられ、
「敵情判断」「先入主(先入観)」といった言葉は削除されている。あまつさえ
『作戦要務令』の解説書には「徒らに打算観念に捉わるるが如きことなからしめら
れたり」とある。
と述べられております。
では、実際の『戦闘綱要』と『作戦要務令』の該当条文を見てみると、
『戦闘綱要』
「第五 (前略) 状況ヲ判断スルニハ任務ヲ基礎トシ我カ軍ノ状態、敵情、地形
其他戦闘ニ関係アル各種ノ資料ヲ収集較量シ以テ最モ有利ニ我カ任務ヲ達成スヘキ
方策ヲ定ムヘキモノトス(中略)状況ヲ判断スルニ方リテハ先入主トナラサルコト
特ニ必要ナリ(後略)」
『戦闘綱要』の復刻版より(池田書店昭 和52年発行)
『作戦要務令』
「第八 指揮官ハ其ノ指揮ヲ適切ナラシメル為絶エズ状況ヲ判断シアルヲ要ス状況
判断ハ任務ヲ基礎トシ我カ軍ノ状態、敵情、地形、気象等各種ノ資料ヲ収集較量シ
積極的ニ我ガ任務ヲ達成スベキ方策ヲ定ムヘキモノトス」
『作戦要務令』の復刻版より(池田書店 昭和54年発行)
となっております。これを見比べての私の所見ですが、『戦闘綱要』において「最モ有利ニ」が「積極的ニ」と置き換えられたのは、敵情収集において全ての情報が明らかになることはほとんどない状況下で、自己都合的に「最モ有利ニ我カ任務ヲ達成スヘキ方策」を立てたり、敵を過大評価してしまうことを反省した結果、『作戦要務令』においては、たとえ敵情が詳らかでなくても「積極的ニ我ガ任務ヲ達成スベキ方策」をたてるべきである、と述べているのだと思います。
すなわち、そもそも戦闘時において客観的に正当な判断をできるだけの情報が手元に集まる期待が薄い以上、自己都合的な情報解釈や消極的作戦で機を逸するのではなく、敵より先制的かつ積極的な作戦行動を取ることが有利である、としていると考えます〔『作戦要務令 第一部 第二篇 第九』に「(前略)決心ハ戦機ヲ明察シ以テ之ヲ定ムベキモノニシテ常ニ任務ヲ基礎トシ地形及気象ノ不利、敵情ノ不明等ニ依リ躊躇スベキモノニアラズ」とあります〕。よって私は、この部分については“少ない情報資料をもとに判断をし、いかに積極的に動いて有利な立場を構築するか”という認識であり、樋口氏とは少しばかり解釈が異なります。
そして、「敵情判断」および「先入主(先入観)」についてですが、確かに『作戦要務令』においては削除されておりますが、「敵情判断」については文章を要約した結果の削除であり、文脈としてはさほど意味が変わらないと判断されたからだと推測します。また、「先入主(先入観)」に関しては、『作戦要務令』の第一部第三篇「情報」の第七十三において、
とあります。すなわち、『戦闘綱要』においては「情報」に関してあちこちに記述されていたのを、『作戦要務令』ではとくに「情報」というくくりでコンパクトにまとめ、さらに「的確ナル憑拠ナキ想像ニ陥ルコトナキヲ要ス」としており、それまでのものと比べて、より情報に対する着目が強くなっていると思います。削除ではなく、強調の意味合いではないでしょうか。
以上のように、私は樋口氏の記述に関して疑問を持っております。樋口氏は、日本陸軍が『戦闘綱要』や『作戦要務令』等の教範に忠実であったが故に、多くの悲劇を生み出し、その象徴がガダルカナル島での一木支隊の全滅である、という風に書いておられますが、私の見解としましては、一木支隊派遣を決定した大本営陸軍部や第十七軍司令部等の幕僚たちが、逆に『戦闘綱要』や『作戦要務令』といった教範類について不勉強であったといえるのではないか、と思います。一木支隊長にしてもしかりです。
最後に、日本陸軍最高軍事機密図書であり、かつ日本陸軍の用兵思想の根源ともいえる『統帥参考書』(昭和三年改訂)より、「情報」に関する記述を抜粋して終わりにしたいと思います。
「八一 情報蒐集敵ニ優レハ勝利ノ発端ナリ 高級指揮官以下有ユル手段ヲ尽シテ此
ノ発端ニ於テ既ニ敵ヲ圧倒シ先制ノ地位ヲ獲得スルヲ要ス而シテ情報蒐集ニ
於テ最モ緊要ナルハ此ノ目的ノ為諸種ノ手段ヲ其ノ特性ニ従ヒ適切ニ運用シ
彼此相補ハシムルト共ニ又同一事項ニ対スル諸方面ヨリ観察ヲ集メ以テ正当
ナル判断ヲ下シ得ル如クスルニアリ之カ為高級指揮官ハ諜報勤務及軍隊ノ行
フ捜索ニヨリテ得タル諸情報ヲ利用スルト同時ニ直接捜索ニ必要ナル処置ヲ
講スルヲ要ス 然リ而シテ情報ノ蒐集ハ最善ノ努力ヲ尽スト雖モ常ニ必スシ
モ所望ノ効果ヲ期待シ得ヘキモノニアラサルカ故ニ高級指揮官ハ情況ニ応シ
徒ラニ其成果ヲ待ツコトナク任務ニ基キ断乎トシテ主動的行動ニ出スルヲ躊
躇スヘカラス特ニ大兵団統帥ニ於テ多クノ場合敵情ヲ審ニシテ後兵団ヲ部署
セントスル時ハ自然ニ敵ニ追随スルノ結果ニ陥リ易ク古来戦場ニ於テ先制主
動ノ地位ヲ確保シ敵ヲ致シタルハ多ク自主的計画ヲ敵ニ強要シタル場合ナル
コトヲ銘心セサルヘカラス」
三木氏所蔵のガリ版『統帥参考書』より抜粋
(戦後、自衛隊創設時の資料として関係者が作成した手書きのものと推定)
(文=三木秀樹)
■筆者からの回答
まず、結論から申しますと『戦闘綱要』と『作戦要務令』の当該項目をどう読み、どう解釈するかですが、ここは素直に読んでいただき、「最も有利に」が「積極的に」に変更されているのは、戦う上で絶対必要な「合理的な状況(とくに敵情)判断を基に有利な状態で(または有利な状況を作為して)戦うこと」を蔑ろにしていると理解すべきでしょう。とくに「敵情判断」「先入主」といった文言の削除と相まって、ドクトリン文書に必須の「合理的な状況判断手続き」の観点からは、退化しているとしかいえません。しかしながら、なぜ『作戦要務令』では、これまでになかった情報の項目を別に設けているのか(第一部第三篇)? たしかに私が執筆した弊誌125号の『一木支隊の全滅』には、このことに全く触れておらず、したがって『作戦要務令』の内容をある程度以上知っている人からみれば、私の記述は恣意的なものにも読めます。
ご意見いただいた三木様には自明のことと思われますが、以下に日本陸軍がどのように『戦闘綱要』や『作戦要務令』の内容を教育していたのかを、筆者なりの研究をもとに、弊誌125号「一木支隊の全滅」(付け加えるなら121号の「盧溝橋事件」も)で出した結論に至る過程を振り返るとともに、ご指摘のあった部分の根拠を述べていきたいと思います。
『作戦要務令』の特徴
『改定 戦術研究上ノ着眼及原則問題ノ解答要領』より
要するに『作戦要務令』は、ドクトリン文書でありながら、それ自体では成立せず、その内容を理解するためには、同書に記述された項目のうち当時の日本陸軍がどこを重視していたのか、軍隊を指揮する上で何を重視していたのかを、考察する必要があります。筆者自身は、これまで戦例を基にそれらを考えてきましたが(戦史的アプローチ)、本稿では教育関係の史料を基に考察を進めてみます。
なお、昭和期日本陸軍の用兵思想が完成したのは、昭和3年(1928)に発布された『統帥綱領』ならびに翌年に発布された『戦闘綱要』からで、『統帥綱領』は大兵団運用のためのドクトリン文書。一方の『戦闘綱要』は、師団規模の諸兵種連合部隊を運用するドクトリン文書ですが、同書は各兵科(兵種)操典の上に位置する「共通教範」とすべきものでもあります。また、当時もう一つ存在した共通教範が、軍隊の野外での諸勤務を規定した『陣中要務令』(大正13年=1924年『野外要務令』より改訂・改称)で、『戦闘要綱』と『陣中要務令』を合本し、対ソ戦をより重視して編纂したのが『作戦要務令』という位置づけになります。
日本陸軍の戦術教育体系
こうした点で見た場合に興味深いのが、「参謀演習旅行」です。これは参謀本部員で統裁部を構成し、全軍から選抜された非陸大卒(一部は陸大専科や陸大受験予定者)の優秀な将校に、大兵団の運用に関する現地戦術を教育するものです(※1)。そして参謀演習旅行は、全軍の将校教育に資するため『参謀演習旅行記事』として書籍化し、偕行社から出版されていました。この『参謀演習旅行記事』のうち、筆者が入手することができた巻の総評から目につく点をピックアップしてみましょう。
『参謀演習旅行記事』から
「甲・乙」二つに分かれて行った演習のうち、甲演習(近畿地方、統裁官・二宮治重歩兵大佐)は、要旨「参謀業務に習熟し、実行困難な命令を起案してはいけない」。乙演習(関東地方、統裁官・西田恒夫歩兵大佐)は、要旨「新兵器と新戦術の関連の重視」が主眼とされました。
次に昭和4年(1929)度第一次演習です。同演習は、新たに発布された『戦闘綱要』の普及が目的でした。
第一班の総評では、まず「大局ニ対スル着眼ノ養成ニ就テ」という項が最初にきます。この項では、統裁官が演習の具体的な状況を挙げて、目先や局所の状況に左右されてはいけないと、批判しています。これは“戦略単位”といわれた師団の運用からみれば当たり前のことのようにも思えます。しかし演習全体の総評では、『戦闘綱要』の「主動攻勢ヲ以テ根本観念トシ機動ヲ以テ其命脈ト為シアル」を引用して、“機動戦による主動的な攻勢”が『戦闘綱要』のいわばキモになる部分だと述べています。この“主導的な攻勢”に「大局ニ対スル着眼」という要素が加味されると、前線部隊(局所)の状況判断よりも上級部隊の意図が優先され、戦術の基礎である「実行の可能性」が損なわれる危険性が少なくありません。
第二班の総評では「神速機敏ニ要点ニ集中発揮」し「疾風迅雷的ニ敵ノ弱点ニ乗ス」べきにもかかわらず、これができていない、と批判されています。
さらに状況および敵情判断に関しては「抑々状況判断ノ基礎ハ我カ任務ニ在リ然ルニ諸官ハ往々ニシテ敵情ヲ過大ニ重視シ此敵情判断ヲ基礎トシ自己ノ決心ヲ定メ其ノ本来ノ任務如何ニ大ナル顧慮ヲ払ハサル者ナキニアラス」となっています。
つまり、状況判断の基礎は与えられた任務にあるにもかかわらず、状況判断の際に敵情を重視しすぎた決心(決断)をしていると、統裁官が批判しているのです。このような教育を徹底されれば、のちに日本陸軍が多くの戦いで失敗を冒す原因となる“敵戦力の下算”をせざるを得ないでしょう。
最後が、昭和7年(1932)度のものです。
この演習の総評で注目すべきは以下の文言でしょう。すなわち「諸官中往々ニシテ敵情判断ニ捉ハレ先ス敵ノ至当ナル行動ノミヲ基礎トシテ自己ノ策案ヲ立ツルカ如キ思想尚存スルハ深ク反省ヲ要ス」。続けて「敵ノ行動如何ニ拘ラス積極自主的方策ヲ以テシ」とあります。
ここでは、「敵情判断に捉われすぎていることを反省すべきだ」。「敵の行動にかかわらず自主積極的に方策を立てろ」と、評しています。また、「規定計画ノ断行ニ邁進セサルヘカラス」ともあります。極端にいえば敵情判断を蔑ろにし、敵の行動を考えず、さらに千変万化する流動性こそが本質である戦いの中で、規定した計画を断行しろ、ということを述べているわけです。これは、状況判断という面においては確実に退化しているといわざるを得ません。ちなみに、この時の統裁官は東條英機歩兵大佐、統裁部には辻政信歩兵大尉がいました。
では、『作戦要務令』が編纂されたあとはどうだったでしょうか。また、自己の意思を重視するあまり、敵情判断をおざなりにした日本陸軍にとって『作戦要務令』に設けられた「情報」の篇はどのような意味をもっていたのでしょうか?
その他のドキュメントを読む
さて、同書の「情報篇」の内容はというと、現在の目から見てとくに奇矯なところはありません。というのも『作戦要務令』の「情報篇」の内容は、一読すれば理解できる至極まともな内容だからです。しかしながら『作戦要務令原則問題ノ答解要領 第一部』もまた、「指揮及連絡」を取り上げた第一問題の「軍隊ノ指揮ヲ軽快ナラシムル為ノ着意スベキ事項ヲ述ベヨ」の解答において「地形及気性ノ不利、敵情ノ不明等ニ依リ躊躇スベキモノニアラズ」とあります。これではせっかくの情報が活かせないのではないでしょうか。
『改定 戦術研究上ノ着眼及原則問題ノ解答要領』より
昭和16年改訂の『戦術学教程 巻一』を見てみましょう。そこには、本来ならば戦術と不可分であるはずの情報の項目はありません。戦いを行うにあたり常に行うものは、状況判断です。その状況判断に論理的な根拠を与えるのが各種の情報のはずです。
そしてここでもまた『作戦要務令』を引用して、「敵情ノ不明ニ依リ躊躇スベキモノニアラズ」「状況判断ハ任務ヲ基礎トシ―略―積極的に我ガ任務ヲ達成スベキ」とあり、とくに原本には「積極的ニ」に傍点が振られ、かつ所有者が強調のアンダーラインを引いています。
同書は、重要な文言に傍点を、その上さらに最重要な部分には傍マルが振られています。「情報」の項目は、『作戦要務令』をそのまま引き写し、すべてに傍点を振っています。これでは逆に重要度が感じられない(ふざけた言い方をすると、成績の悪い生徒の教科書です=どこが重要なのかアンダーラインだらけでわからない)。
日本陸軍は、そのドクトリンにおいて本当に情報を重要視していたのでしょうか。こうした視点でみると、「情報篇」で重要なのは、三木様のご指摘にある「第七十三条」の前段部分ではなく、むしろ省略なさった「尚局部的判断ニ囚レ或ハ敵ノ欺騙、宣伝等ニ依リ往々大ナル誤謬ヲ招来スルコトアルニ注意スルヲ要ス」の部分ではないかとさえ思えてきます。
結論
日本陸軍は、結局のところ情報を(表面的に)重視していながらも、それを戦闘指揮にどのように活かすのか、または状況判断に使用するために、どのように扱うべきかを理解できていない、もしくは理解しなかった軍隊だというのが、現時点での筆者の結論です。つまり、大本営も、第十七軍も、一木大佐も、『作戦要務令』に具体化された日本陸軍の用兵思想を体現した存在だったと筆者は考えます。それゆえに、盧溝橋事件とガダルカナル戦の初動は、日本陸軍の用兵思想を考える上で、ケーススタディーとして象徴事例になると判断したわけです。
※1=「本演習ハ国軍将校ノ戦術能力ヲ増進スルト共ニ枢機ニ参画スヘキ要因ヲ養成スルヲ目的」(「大正11年度第二次参謀旅行演習記事」の参謀総長訓示)。「(前略)目的ハ条例ノ示ス如ク大部隊ノ作戦ヲ実地ニ講究シ戦時高等指揮官竝参謀将校ノ要務ヲ習得スルニ在リ」(同、統裁官注意事項)。
(文=樋口隆晴)
■編集部より
これらの将校たちは、明確に言語化されていない日本陸軍の用兵思想とドクトリンの結果生まれた者なのか、それともそのような個性を生み出すために、日本陸軍の用兵思想とドクトリンは、あえて言語化されていなかったのか?
弊誌連載の「戦闘戦史」の今後の展開を考える上でも、このたび頂きましたご意見・御指摘は、とてもタイムリーなものでした。こうしたことが契機となり「用兵思想を視点とした軍隊教育」というテーマの研究が進み、その成果が弊誌のこれまでの記事を引っくり返してしまうのなら、戦史雑誌を制作する我々編集部にとって望外の喜びです。
あらためまして、ご意見・ご指摘ありがとうございました。
(文=編集部)