関ヶ原取材記(歴史群像106号)
※今回の「こぼれ話」は、前号掲載の特集「作戦研究 関ヶ原合戦」と「戦国の城・松尾山城」取材のため、現地へ飛んだスタッフ(小平太)が提出した報告書をご紹介。本来ならばタイミング的に「ボツ」になるところを、「小早川勢の下山ルートを見つけた!」と強引にねじ込んできた小平太の蛮勇に免じて配信します。(by編集長)
城の熊さん
クマ出没注意の看板(笹尾山・石田三成陣地)。
毛利秀元陣地・南宮山にてお約束の「宰相殿の空弁当」。本取材2つめの「登山」とあっては、そう簡単に下山するわけには参りません。ちなみに小生のお昼は唐揚げ弁当でした。
ところが現地で大問題発生。関ヶ原駅に到着後、掲示板をみると「熊の出没」により関ヶ原ウォークラリーなど各種イベント中止の張り紙。対「熊さん」用装備もなく、小さな貝のイヤリングも持ち合わせていない小生たちとしては、成す術なしの状況。あわや取材中止かと思われましたが、町役場に電話で確認したところ、熊が出没するのは関ヶ原盆地の北の伊吹山系で、盆地を東西に分断する「名神高速道路」、「東海道新幹線」という絶対防衛ラインがあるため、防衛線南側の松尾山および南宮山はセーフ(石田三成陣地の笹尾山はアウト)とのこと。ひと安心して松尾山に向かいました。
松尾山城を撮影したあとは地図を片手に、小早川秀秋勢が通ったと思われるルートを探索しながら下山を試みました(後述)。遭難の危険におびえながらも中山道に通じる間道に辿り着き、「ルート発見」に気分が高揚する小生たち。浮かれ気分で、すれちがった地元の方に挨拶すると一言、
「昨日、松尾山で熊が出たけど会わなかったかい?」
「ギャー!!」
金吾、松尾山を下る!
関ヶ原を駆ける銀輪部隊。登山にサイクリング、これが仕事じゃなければ……。
小早川本隊の推定下山ルート。稜線の幅は広くないため、大軍の移動には時間を要したものと思われます。
現在の松尾山頂から関ヶ原主戦場までは、大軍がまっすぐ下っていけるような地形ではありません。そこで取材班は、小早川勢は松尾山を西軍陣地までまっすぐ下ったのではなく、松尾山西側の稜線を迂回して関ヶ原に下ったのではないかと考えました。実際に明治時代の地形図を見ると、松尾山の西には旧中山道に繋がる間道らしきものがあり、ここを迂回できれば黒血川や藤古川といった地形に制約されることなく、西軍の大谷吉継勢の背後を衝くことができます。
山頂から稜線沿いに道らしきものを辿りながら下山を始めると、早い段階で山から関ヶ原盆地は見えなくなりました。これならば西軍に対する奇襲効果も期待できます。途中、稜線の幅が狭くなっていた場所もありましたが、無事に中山道に繋がる間道に出ることに成功。そこから間道を中山道まで歩いてみたところ、松尾山が死角となるので西軍陣地跡を窺うことはできませんでした。つまり小早川勢は、西軍から視認されることなく西軍背後に接近できるということを意味します。
各史料によれば、松尾山を下った小早川勢は、裏切りを予期していた大谷勢に一旦は撃退されたことになっています。しかし撃退されたとされる部隊は、小早川勢の別働隊だった可能性はないでしょうか。そうであるならば、迂回ルートで下山した小早川本隊が予期せぬところから出現したために、大谷勢は崩壊したと考えることができます。
105号の「作戦研究・関ヶ原合戦」でも指摘されているように、小早川勢が関ヶ原盆地の要である松尾山を占拠することで関ヶ原決戦が生起したこと、絶妙なタイミングで戦闘に参加していることを併せて考えると、通説では家康に脅されるかたちで裏切りを決断したとされる小早川秀秋の行動も、今後再評価されるべきではないでしょうか。
小早川本隊の推定下山ルート (国土地理院1/25000「関ケ原」)
明治27年の地図に記載されている間道
(陸地測量部 明治27年発行 関ケ原1/20000)
(文=山猫の小平太)