制作こぼれ話

旧海軍兵学校跡地をレポート(歴史群像121号)

現存する海軍兵学校の建築物

旧海軍兵学校生徒館
明治26年(1893)に旧海軍兵学校東生徒館として建築されました。設計は、東京・築地にあった兵学校生徒館も手掛けたイギリス人建築家ジョン・ダイアック。1階は自習室、2階は寝室及び講堂として使用されていました。正面玄関上には海上自衛隊の桜と錨の紋章が飾られています。当時は菊の御紋章が掲げられていました。この庁舎は、平成14年(2002)から2年間かけて大修理が行われ、創建当初の美しさを取り戻しました。現在は海上自衛隊幹部候補生学校の庁舎として使用されています。

旧海軍兵学校生徒館
外壁は通称「赤レンガ」と呼ばれるほど、惜しげもなく煉瓦が使用されています。この煉瓦はイギリスから大変高価で良質なものが輸入され、建築当時から120年以上経ても色褪せていません。煉瓦の積み方はイギリス積みというぜいたくな積み方をしています。

 今号の巻頭ページに掲載した大和ミュージアム特別企画展「巨大戦艦大和展」を取材した足で、江田島市の旧海軍兵学校跡地などの関連施設へも行ってきました。
 海軍兵学校は明治9年(1876)から終戦まで存在し、日本海軍の将校育成を目的として設立されました。明治21年、海軍兵学校は東京・築地から広島の江田島に移転し、その後に生徒館、大講堂、理化学講堂などが続々と建築されました。その規模は、イギリス・ダートマスの王立海軍兵学校、アメリカ・アナポリスの合衆国海軍兵学校とともに世界三大兵学校と呼ばれたほどでした。戦後、米軍・英連邦軍が進駐して返還されたのは昭和31年で、翌年に横須賀から海上自衛隊の第1術科学校が移転し、のちに幹部候補生学校も開校されました。
 現在は「海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校」と名称を変えました。構内には歴史的建築物が多く残っています。大戦末期には各地で空襲を受けましたが、海軍兵学校は空襲による爆撃は受けませんでした。旧海軍兵学校生徒館をはじめ、大講堂や教育参考館、水交館、高松宮記念館(旧高松宮邸)などの建物があり、今回はその一部をご紹介します。

一般見学は時間帯が決まっていますが、当日に受付をすれば無料で施設を見学することができます。

海上自衛隊第1術科学校
http://www.mod.go.jp/msdf/onemss/index.html

(文=ジョニー)

大講堂
大講堂は大正6年(1917)、兵学校生徒の入校式や卒業式などのために建築されました。現在は幹部候補生、第1術科学校の入校式・卒業式などの行事に使用されています。外壁は瀬戸内海産の御影石(花崗岩)が使用され、大講堂の内部は約2000人の収容能力があり、吹き抜けの空間が広がっています。

100メートル以上ある開放式の廊下。右側には海軍士官刀帯や制帽をかけられるスペースがあります。左側の中庭には軍歌『同期の桜』のモデルとされる桜が植えられています。

大講堂の主賓用玄関。天皇陛下や皇族用の玄関で、車寄せがつけられています。

大講堂の内部。演壇中央には天皇陛下の玉座が設けられています。NHKドラマ「坂の上の雲」の海軍大学校で兵棋演習をしているシーンの撮影にも使用されました。


教育参考館
昭和11年(1936)、教育参考館はギリシア神殿風の鉄筋2階建てが建築されました。戦前は、歴史的資料約40000点を保存していましたが、終戦時に一部の貴重な資料を厳島神社、大山祗神社等に奉納。その他は進駐軍による没収を恐れて焼却処分しました。現在は、返却された資料や旧海軍関係の資料、神風特攻隊員たちの遺書や遺品など約16000点が保存されており、そのうち約1000点が展示されています。

左から教育参考館横に展示してある戦艦『大和』の主砲弾、日清戦争で活躍した三景艦(松島、橋立、厳島)の主砲砲弾、特殊潜航艇『甲標的』。

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