71年目のバルジの戦い (歴史群像136号)
施設内の除雪作業が続くハリスバーグ国際空港。当初、午前中に到着する予定が1週間前の大寒波の影響で、午前中の便がキャンセルされ、ワシントンでは乗り継ぎに4時間も待たされた。ちなみに写真右奥、丘の向こう側の白煙が上がっている場所はスリーマイル原子力発電所。
実物からレプリカなどの軍用品が並ぶミリタリーマーケット。見学者も含め多くの人が訪れ賑わっていた。ドイツ軍のレプリカの弾薬箱も販売されている。近年、レプリカのミリタリー商品は、ユニフォームや装備だけでなく、弾薬箱やレーションなどの箱類も造られるようになった。
会場は28日の午後から一般にも開放される。ヒストリカル・バトルの終了後、「バルジの戦い」の連合軍戦没者を称えるセレモニーの行進が行われた。先頭を行くのは「シビル・エア・パトロール」(空軍管轄の民間ボランティア団体)の儀杖隊。
綺麗な状態にレストアされたアメリカ軍M3ハーフトラック。戦車などの装軌式車両は、道路を傷めるために走行できる道路が限られていたことから、一か所に集めて展示される。
雪原を走行する3号突撃砲。この車両はイギリス軍が使用していたFV432兵員輸送車をベースに改造して造られている。
路上で待機するアメリカ軍のM20装甲車とM5軽戦車(レプリカ)。M20装甲車は、指揮通信車として使用された装甲車で、武装はM2重機関銃1挺。
昨年12月中旬に知人から、このイベントを取材できるかもしれないと連絡が入りました。その時は、暖冬のため「雪が無いと、バルジの戦いのイメージにならないのでは」と冗談をいいながら、取材の準備を始めました。1月になり、取材の許可も下りて航空券の手配も済んだイベント開催の1週間前、テレビのニュースはアメリカ東部の大寒波と非常事態宣言が出されたことを伝え始めます。これで、当時と同じ「雪の中のバルジの戦いになるな」と思いつつ、雪中の取材になることを心配し、着替えのほかに取材用に防寒・防水装備を整え、いつもよりも荷物が詰まったバッグを持っての渡米になりました。
1月27日午前0時に日本を発ち、ロスアンジェルス、ワシントンD.C.と飛行機を乗り継ぎ、ハリスバーグ空港に到着し、レンタカーを借りて会場の「フォート・インディアンタウン・ギャップ」基地に到着したのは現地時間の1月28日午後3時過ぎ、羽田を離陸してから26時間が経っていました。
1回目のバトルが行われた1月29日、午前中の天気は曇り時々雪。バトルに参加するため兵舎前に集合した参加者たちは、時おり強く降る雪に気分を高めています。移動のため待機するアメリカ第101空挺師団のグループをみると、当時と同じようにレザーブーツの上から履くゴム製の防水用オーバー・ブーツを履くなどして準備万端。演習場への移動には4台のスクールバスが用意され、部隊ごとに順次、出発していきます。バスは参加者を運ぶため、兵舎エリアと演習場の間を数回往復していました。
演習場は一面の雪景色(あたりまえだけど)。到着すると、部隊は指令を受けたエリアまで徒歩での移動です。取材のため部隊に付いて歩きながら、まさに「雪の進軍」だと思っていると、部隊はドイツ軍に遭遇し戦闘が始まります。戦闘中、参加者は当時の兵士になりきり、映画で見るようなシーンを雪の中で演じていました。この移動と戦闘を繰り返し、初日のバトルは午後2時に終了しました。2日目のバトルは晴天の下、初日よりも多くの参加者が集まり、「バルジの戦い」を再演していました。
では本誌136号の誌面には収めきれなかった写真で、このイベントを紹介していきましょう。
ヒストリカル・バトルとは
バトルへの参加者は、20代から60代と年齢の幅は広く、現役(州兵を含む)の軍人から退役した人までと軍歴を持つ人たちもいます。これら軍歴のある参加者は現役の階級または退役時の階級で参加していますが、将校や下士官の場合は所属する部隊の指揮を執ったり、軍歴のない参加者に基本教練を会場で教えたりしていました。
(文=沼田和人)
ランチで食べたハンバーガーとチリビーンズ。3日間の昼食はすべてハンバーガー。アメリカ料理は嫌いではないが…。夜はディナーメニューを注文。チキン・プレスド・ディナーは、クリームグレービーソースがかけられた鶏の胸肉とマッシュポテトそしてミックスベジタブル。閉店間際に注文したら、「腹へっているんだろう」と言われ、鶏肉は1個のところが2個、マッシュポテトも大型おたま二杯分の大盛りが出てきた。