制作こぼれ話

片島魚雷発射試験場(歴史群像149号)

片島と川棚の位置。写真右が片島の発射場跡。写真左の工場煙突から煙が上がっている一帯がかつての川棚海軍工廠

別名だらけの片島の魚雷発射場

 軍事遺構に関心をもつ人たちや一部の廃墟マニアの間だけでなく、アニメ『バケモノの子』(監督・細田守、2015年)の舞台、2017年にはロックバンドflumpool(フランプール)のミュージックビデオロケ地となり、YouTubeでもアップされるなど、様々なかたちで注目されるようになった長崎県川棚町の片島魚雷発射試験場跡。

片島全景。写真左手前が廃艦となった二等駆逐艦「樺」を用いて昭和8年(1933)6月に完成した船舶碇泊用防波堤(現・三越漁港防波堤)

数年前は雑草だらけだった片島公園(撮影:2015年7月7日)

空気圧縮喞筒所跡の中で見かけたネコ(撮影:2015年7月7日)

手前が射場及び射場上屋跡。左奥に探針儀領収試験場跡がみえる。写真奥が魚雷射線をとった南の長崎市方面

射場上屋望楼の内部。昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎に投下された原子爆弾の閃光、炸裂音、そして爆風の順で次々と到達したという。

 今回、この軍事遺構を詳しく調査するきっかけとなったのは、案内役として参加した日本遺産「佐世保鎮守府」の関西方面プレス向けツアーでした。その時点で筆者が持ち合わせていた片島についての知識が実際とは随分異なることを地元・川棚町史談会さんにご教示いただいたのです。そこで川棚町・同教育委員会にご協力いただき、今回の記事(6月号P2-7)となりました。
 さて、この施設について日本海軍の記録(「海軍省公文備考」など)における名称が複数あったことは記事本文でも若干触れましたが、「川棚魚雷(遠距離)発射場」以外にも、「大村湾魚雷(水雷)発射場」「大村湾魚雷遠距離発射場」という呼称が使われていました。同一施設に違う名称がいくつも存在するなか、現場はよく混乱しなかったものだと感心します。
 これまで片島発射場があまり知られてこなかった背景には、このような複数の名称の存在が影響していたのかもしれません。実際、資料調査と解読の面で随分苦労しました。

領収発射、魚雷のムダ射ち防止

 佐世保工廠長や呉工廠長などを歴任した砂川兼雄海軍中将(1887-1948、海兵36期)が少佐(佐世保工廠造兵部検査官)であった大正13年(1924)当時に作成した資料に、当時の片島の様子を詳細に記した報告書(*1)があります。
 大正期の軍縮整理のなか、いかに魚雷領収発射試験の能率増進を図るかという課題設定のもと書かれたものでした。
 この報告書には、魚雷発射試験における「無駄打」防止を係員全員に周知徹底させるよう記されています。
 砂川少佐は、魚雷機関の寿命(命数)が短命(六年式魚雷の場合、30ノットで29キロメートルと記載)で、何度も発射試験を繰り返すと、納品してもいざという時に使いモノにならないことに触れています。1回の再試験(「無駄打」)は極めて高価かつ重大なため、能率的な魚雷領収発射試験が要求されたのです。
 ところがその発射場は、能率的作業を行う職場としてはかなり過酷な環境だったことも報告書からうかがえるのです。

過酷だった大正期の片島生活

 重量のある魚雷を揚収するためのクレーンすらなかった発射場開設当初の片島へは、月平均で90人もの作業員が出張していたと記されています。 
 彼らの宿舎はたった1室。わずか56畳(京間計算で101.9㎡)にすし詰めの状態でした。そのため、室内の喧騒、安眠妨害の原因になりかねないアルコール類については、「検査官以下一同絶対禁酒」とされました。
 寝具も不足しており、夏場は狭く暑い宿舎から逃れるように屋外で寝る者が続出しました。しかし屋外ですから、夜露に濡れ、蚊の大群に刺され、睡眠不足となり、結果、作業能率が低下したようです。そこで宿舎の拡張、蚊帳の調達などが行われ、大正12年には全員が宿舎内で寝るようになったと報告されています。
 医療面では、ケガ・病気の際には近隣の三越村某医出張所で応急処置を受けていました。ところが消毒不良や不適切な投薬などのため大正7年から12年までは年間に1人ずつ死亡者を出していました。そこで治療は大村航空隊軍医官に委託するよう変更し、状況は改善したとされています。
 娯楽のない島内生活は「実ニ乾燥無味」でした。終業後の相撲、機械体操など運動が奨励され、大正13年時点では「「テニスコート」ノ計画中ナリ」との記述もありましたが、片島でテニスをしたという作業員の回想は見当たりません。
 こうなると片島での唯一の癒しは食事だけです。しかしこれまた「甚ダ粗食」で、「終始一汁一食ニシテ而(しか)モ其ノ一汁ハ一日毎食同一ノモノ」という有り様でした。ワンパターンな粗食が朝・昼・夕に繰り返されたというのです。
 さすがに当時も「心身保健上並ニ能率上ニ及ホス影響尠(すく)ナカラザル」と重大な欠陥であることは認識され、早急に調理設備を改造予定である旨が報告されています。
 昭和期の片島については、魚雷が海底に水没した際、水雷検査工の潜水夫が魚雷回収のついでにナマコ・サザエを採ってきたこと、発射試験終了後の夕方には船を出してキス釣りや飯ダコ採りを行い、食卓を賑わせたという回想も残されています。 
 これらは一見するとのんびりした片島の日常風景と受け取られそうですが、砂川少佐の報告書を読むと、じつは能率的な領収発射の遂行を求められた作業員の栄養補給と精神衛生管理面で欠かせないものだったのだろうと思えてきます。
 2018年は、片島に魚雷発射場が開設されてちょうど100年目にあたります。
 本誌をきっかけに川棚町の片島に行って見ようと思われた読者は、このこぼれ話や記事本文をちょっと頭の片隅に置いた上で、探訪していただくと違う光景が眼前に広がってくるかもしれません。

(文・写真/齋藤義朗)


(*1)
「魚雷領収発射作業ヲ進捗セシムルタメ現ニ採リツヽアル方法並其ノ成績 将来一層作業ヲ進捗セシムルタメニ採ルベキ手段」佐世保海軍工廠造兵部検査官 砂川兼雄、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051186300、大正13年 公文備考 巻65 検閲(防衛省防衛研究所)32~51コマ、および同Ref.C08051186400 1コマ

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