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TOKYO銅像マップ

浅草観音 浅草寺

九代目市川団十郎「暫」

瓜生岩子之像

大谷米太郎夫妻

鳩ポッポの歌碑・他

 今回は、東京都台東区の浅草寺(せんそうじ)の銅像を探訪します。
浅草寺は628年創建(伝『浅草寺縁起』。推古天皇の時代)といわれ、東京都内最古の寺です。天台宗に属していましたが、第二次大戦後に「聖観音宗」総本山(山号「金龍山」、本尊は「聖観音菩薩」)として独立しました。江戸、および坂東(関東)それぞれの観音霊場の札所として古くから知られ、全国有数の観光地でしたが、最近では海外からの観光客にも定番のスポットとして人気があり、雷門から宝蔵門に至る約250メートルに及ぶ仲見世は国内外の観光客で賑わっています。境内には銅像、石碑等が多数ありますが、今回はその中から4体の銅像を紹介します。

(写真をクリックすると説明もご覧になれます。ポップアップブロックを解除してください。)

九代目市川団十郎「暫」
 (1838~1903)

建立:1919年
再建:1986年11月3日
制作:新海竹太郎
「市川團十郎(団十郎)」は歌舞伎の市川流家元にして市川一門宗家の名跡です。銅像のモデルとなった九代目(九世)市川團十郎は江戸末期から明治にかけて活躍した歌舞伎役者です。伝統的な様式美に史実に基づく考証や演出を加味し、歌舞伎の近代化を図り、江戸庶民の娯楽としての歌舞伎に芸術性を伴う日本独自の文化としての価値を加えたことでも知られています。「九代目」といえば他の誰でもなく九世市川團十郎を指す、といわれるほど歌舞伎の歴史の中で重きをなす人物です。なお団十郎の名跡は十二代目が亡くなった後しばし途絶えていましたが、実子である十一代目市川海老蔵が2020年に「十三代目市川團十郎 白猿」を襲名することが発表されており、歌舞伎ファンの期待を集めています。
 銅像は、本堂裏の広場にあります。高さ4メートルほどの台座付きの立像で、姿は歌舞伎の演目『暫(しばらく)』の主役、鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ。史実では平安後期の武将で平景正ともいう)を模しており、悪を成敗するため忽然と姿を現す際に「暫く」と一声高く呼ばわって、團十郎の代名詞でもある「にらみ」を効かせる場面を切り取っています。これは九代目が、江戸時代には特に決まった配役等がなかった『暫』を独立した物語(一幕物)として上演し、人気の演目となるきっかけとなったことに因みます。
 現在の像は昭和61年(1986)に十二世市川團十郎襲名に際して再建されたもので、初代の像は大正8年(1919)に彫刻家・新海竹太郎の手により制作され、建立されましたが、第二次大戦の金属供出で失われています。建立されている場所が表玄関ともいえる雷門からかなり奥にありますが、本堂を過ぎて広場に出ると、周囲を睥睨するかの如く「にらみ」を効かせる像の迫力に圧倒されます。像の見どころは、やはりこの「形」の迫力に尽きるといえるかもしれません。

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瓜生岩子 (1829~1897)

建立:1901年
制作:大熊氏広
 瓜生岩子(うりゅういわこ)は、明治時代に社会的な弱者、貧困児童の救済やそのための施設(孤児院、学校、病院等)の設立に尽力した慈善家(社会奉仕事業家)です。江戸末期の文政12年(1829)に陸奥国(現在の福島県)で生まれ、自身、度重なる不幸に見舞われながら、菩提寺の住職に貧者救済の道を諭されたことをきっかけに、人生を社会事業に捧げていきます。明治30年(1897)没。その功績により、女性として初めて藍綬褒章(らんじゅほうしょう。公衆の利益に関わる事業を起こし、謙虚な実績を示した者等に与えられる)を受章しました。その献身的な活動から「日本のナイチンゲール」とも呼ばれています。野口英世の母が産婆(現在の助産婦)の資格を取得するのに際し、岩子の協力があったといわれています。
 銅像は、本堂裏の広場の一角、淡島堂の近くにあります。台座付きの座像で、晩年の姿を描いています。故郷、福島で没した4年後に渋沢栄一、久野徳五郎などの篤志家により明治34(1901)年に浅草寺に建立されました。台座正面には、日本の女子教育の先覚者として知られる下田歌子の撰文が刻まれています。老境に入った姿を描いており、その柔和な風貌からは弱者、貧者にとっての救いの神のような存在であった岩子の人柄を想像させてくれます。

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大谷米太郎夫妻
 (1881~1968)

建立:1967年10月1日
 大谷米太郎(おおたによねたろう)は、明治14年、富山県の農家の長男として生まれ、大正~昭和期に実業家として活躍した人物です。若いころから力自慢で知られ、一時期は力士として土俵に上がっていましたが、幕内目前で実業家に転身。関東大震災で復興のため鉄鋼材料の需要が拡大していたところに目を付けて鋼材生産事業に乗り出し、大きく成長しました。鉄鋼事業は最終的に手放すことになりましたが、戦後まもなく自身が勧進元となって「蔵前国技館」の完成に尽力し、東京オリンピックを契機に宿泊施設不足解消のため「ホテル ニューオータニ」を建設。浅草寺とも、寶蔵門の再建にあたって寄進により貢献をしたという深い縁があります。
 銅像は、本堂裏の広場の奥にあります。九代目市川團十郎の像に向かって右側にあり、台座付きの胸像が夫婦仲良く並んでいます(左に大谷米太郎、右に妻の大谷さと子)。像の背後には宝蔵門再建への貢献を顕彰する「功徳」の文字を大書した屏風風の石彫、米太郎像の左にも顕彰の説明碑が置かれています。建立場所は普段人の往来が少なく、像自体が静かな夫婦の時間を切り取ったかのような落ち着いた雰囲気をまとっているため、團十郎の像の迫力に満足して気が付かないかもしれません。浅草寺とも関わりが深く、日本実業史の中で「三大富豪」に数えられるなど立志伝中の人物として、浅草寺を訪れたならぜひ訪れてみたい像の一つといえるでしょう。

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鳩ポッポの歌碑・他
 

建立:1962年
制作:朝倉文夫
 浅草寺境内には、前述の像のほかにもたくさんの歌碑や石碑があります。その一部を紹介しましょう。
 本堂の入り口西側の脇には「鳩ぽっぽの歌碑」があります。童謡『鳩ぽっぽ』は、童謡作詞家の東くめ(ひがしくめ。日本で初めて口語による童謡の作詞を手掛けたことで知られる)が浅草寺境内で子供が鳩と遊ぶ姿を見て詩の着想を得、瀧廉太郎の作曲により誕生した名曲です。二人は『お正月』など他の作品でもコンビを組んでいます。昭和37年(1962)の建立で、石組みの台座に歌詞・楽譜の碑と日本を代表する彫刻家・朝倉文夫が手掛けた鳩の像が組み合わさった、のどかな雰囲気の歌碑です。
 ほかにも寛政8年(1796)建立という、江戸時代から歴史を刻んできた「松尾芭蕉句碑」、大衆演劇の聖地といわれる浅草らしい「喜劇人の碑」(昭和57年建立。ボードビリアン、コメディアンとして活躍し、楽曲演奏を取り入れたボーイズものの創始者として知られる川田晴久を筆頭に、世を去った喜劇人たちを偲んで造られた)、一命を賭して消火活動に尽力した、江戸町火消しの時代から現代までの消防従事者を慰霊・顕彰する「消防殉職者表彰碑」、歌碑と同じく朝倉文夫が手掛けた「慈雲の泉」の像などがあります。「慈雲の泉」は、現在は本堂西の植え込みの中にありますが、以前は境内の噴水のために建立された像で、その名の通り噴水の中にあったそうです。雲に乗って一方を見つめる群衆を描いた、不思議な空気感を漂わせた像です。

 浅草寺内ではありませんが、仲見世から本堂にかけての喧騒から少し離れると、数多くの像や碑に出会うことができます。
 珍しいところでは、主人公が浅草出身ということに因んだ「『こちら葛飾区亀有公園前派出所』記念碑」(主人公・両津勘吉の少年時代のエピソードに、浅草寺本堂東に社殿がある浅草神社が描かれた縁で、コミック発行部数1億3000万部突破を記念して建立)などがあります。また銅像ではありませんが、本堂裏の広場のはずれから言問通りへと続く道の植え込みの中には、水木しげる原作の『ゲゲゲの鬼太郎』の主人公・鬼太郎、そして目玉おやじ、子泣きじじいのデフォルメされた石像がひっそりと佇んでいます。妖怪らしく人目を忍んで隠れている感じなのですが、なぜかウルトラマンも加わっており、ちょっと不思議な雰囲気です。

浅草寺に足を運ぶ機会があれば少し時間をとって、様々な形態、由来がある近隣の像たちも訪ねてみるのもいいかもしれません。


太田道灌 橋本左内