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TOKYO銅像マップ

門前仲町・清澄・亀戸

伊能忠敬

松尾芭蕉 1

松尾芭蕉 2

菅原道真

今回は江東区へと足を運びましょう。銅像を巡って訪ねる場所は、首都高速9号(深川線)を挟んで南北に位置する門前仲町と清澄です。門前仲町は、江戸時代に富岡八幡宮や永代寺といった寺社の門前町として栄え、現在でも仲見世の名残が多く残され、縁日や祭りの際には多くの観光客が訪れます。住宅街が広がり、再開発も進められていますが、その一方で古い町並みやかつての江戸情緒を今に伝える深川江戸資料館などの展示施設も整備され、「江戸」と「東京」が混在する街です。その北にある清澄は、東京都指定名勝の清澄庭園があることで知られ、かつてその場所は豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷があったといわれています。後に三菱財閥創始者・岩崎弥太郎により買い取られ、庭園として整備が進み(庭園内の洋館建築では、文京区の東京大学構内の項で紹介したジョサイヤ・コンドルも関わっています)、現在では水と緑に恵まれた憩いの場として多くの人々に親しまれています。

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伊能忠敬  (1745~1818)

建立・除幕:2001年10月20日
製作:酒井道久
 伊能忠敬(いのう ただたか)は、江戸後期の商人・測量家です。延享2年(1745)に神保貞恒の次男として誕生しますが、18歳で醸造業を営んでいた伊能家に婿養子として迎えられ、傾いていた伊能家を再建。50歳になったのを機に家業を長男の景敬に譲ると江戸で幕府の天文方を務めていた高橋至時に師事し、測量術や天文観測の技術を習得します。そして、身につけた技術を用い、それまで不正確な地図しかなかった日本全土の測量(沿海部)に乗り出します。この時56歳。当時の日本男子の寿命からすると高齢での旅立ちでした。測量に意義を見出した幕府の手助けもあり、国家的事業となります。忠敬の努力は、やがて日本では過去に例のない精密地図「大日本沿海輿地全図」として結実しますが、忠敬自身は文化15年(1818)に亡くなり、没後3年を経た文政4年(1821)に事業を引き継いだ弟子たちにより完成を見ました。
 この地図は国禁(海外持ち出し禁止)とされ、オランダ商館付き医師・シーボルトが離日に際して写本を作っていたことを咎められて追放処分(シーボルト事件)となるなど、極秘扱いでした。なお、持ち出された写本はさらに複製され、船舶関係者を始めとする多くの人々の手に渡ります。当時の欧米人たちは、この地図を見取り図かスケッチ程度の不正確なものとしていました(日本人が独自に測量技術を開発しているという認識がなかった)。しかし、嘉永6年(1853)に「黒船」を率いて来航したペリー提督が測量船を用いた沿岸測量を行い、その結果と持参していた複製写本を比較したところ、科学測量された精密地図であることが分かります。日本を文明の遅れた一小国と考えていたペリーは、これをきっかけに認識を改めたといわれています。
 銅像は、門前仲町の富岡八幡宮(江戸最大の八幡宮)の境内、大鳥居脇にあります。除幕は平成13年(2001)で、測量開始200年を記念したものでした。実は門前仲町と富岡八幡宮は伊能忠敬と縁が深く、当時は深川黒江町と呼ばれていた門前仲町に居住し、測量旅行出発に際しては、富岡八幡宮に参拝して旅の無事を祈願していたそうです。像は測量旅行時の姿を模した立像で、製作は彫刻家の酒井道久。忠敬から7代目の子孫にあたる洋画家・伊能洋が監修し、困難な事業に向かう決意と力強さにあふれた像となっています。像の背後には、日本の地形シルエットと銅像建立の由来を刻んだ石板が置かれ、全体として荘厳さと躍動感が調和した見ごたえのある像になっています。

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松尾芭蕉 (1644~1694)

建立:1991年4月
 松尾芭蕉(通称・松尾藤七郎など)は、江戸時代前期の俳人・俳諧師です。出身は現在の三重県伊賀で、寛永21年(1644)に農家を営む松尾家の次男として誕生しました。やがて兄が家業を継ぐと、自身は農業を離れて武家の藤堂家の嫡子・良忠に仕えることになりますが、良忠が医師であり歌人でもあった北村季吟(きたむら きぎん)に師事していたことから俳諧の世界へと足を踏み入れます。良忠の死後は藤堂家の仕官より離れ、江戸へと向かいます。「芭蕉」の俳号を使うようになったのは江戸・深川の庵に居住するようになって以降の延宝8年(1680)の冬頃からです。ここを拠点としてしばしば日本全国を旅し、多くの紀行文を残しました。中でも元禄2年(1689)に弟子の河合曾良とともに旅した『奥の細道』は有名です。後半生の大半が旅の空の下にあった芭蕉が最期を迎えたのも旅先で、享年51歳。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が最後の句でした。
 かなりの健脚であったといわれ、また伊賀出身であることから「芭蕉隠密説」などもありますが、連歌を源流とする俳諧に蕉風と呼ばれる独自の句風(複数の句の連作で構成するものから、単独の句に完結性を持たせて自立させるスタイルを好んで詠んだ)を生みだし、後に芭蕉十哲と呼ばれる弟子を育てるなど、俳諧を志す多くの後進に影響を与えた偉大な俳人でした。
 銅像は、出身地の伊賀など芭蕉所縁の地に数多く作られていますが、都内には住居のあった江東区深川に2体あります。まず、芭蕉が『奥の細道』へと出立した「採荼庵(さいとあん・芭蕉の門人杉山杉風(すぎやま さんぷう)の別荘)」跡の像を紹介しましょう。採荼庵跡は仙台堀川に渡された海辺橋のたもとにあり、庵風の壁(景観はかなり現代的)に設えた縁側に、旅立ち支度の姿で腰かけている姿です。俳人・与謝蕪村が描いた姿などでも知られるやや面長で柔和な表情が印象的です。採荼庵跡の横には、芭蕉の句が飾られた遊歩道もあります。

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松尾芭蕉 (1644~1694)

建立:1995年4月
 対岸に清洲橋を望む隅田川沿いには芭蕉記念館とその分館があり、分館屋上に設けられた芭蕉庵史跡展望庭園にちょっと凝った仕掛けの座像があります。像は座布団に座った姿を模しており、芭蕉への経済援助を行ったといわれる杉山杉風の画(後世模写されたもの)を参考に製作されたもので、座布団に座り、頭巾と法体を身に付けた姿です。像の台座にはタイマーと回転機構が内蔵されており、庭園閉園後の午後5時になるとライトアップされ、清洲橋方向へと像が90度回転します。この様子は庭園下のテラスから見上げることができるほか、隅田川を行き交う観光船などからも見ることができるそうです。展望庭園には銅像のほか芭蕉庵のデッサン画が金属パネルで展示されています。
 なお「芭蕉庵」は火災による消失や再建などで、都合3度作られていますが、いずれも最初の庵の近くでした。その一つに病没の旅までの本拠地となった「深川芭蕉庵」があり、現在は芭蕉稲荷神社(芭蕉庵史跡)となっています。芭蕉庵史跡展望庭園そのすぐ近くにあり、さらに徒歩5分ほどのところには本館である江東区芭蕉記念館があります。記念館(本館)は芭蕉をはじめとする俳文学関係の資料を随時展示するほか、俳句、短歌の文学サークルや会議などに利用できる会議室等の貸し出しも行っています。また館内庭園の築山に設けられた祠には、石造ですが芭蕉の座像が収められています。こちらにも足を運んでみてはいかがでしょうか。


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菅原道真 (845~903)

建立:1977年
 菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安時代中期に活躍した貴族・政治家で、詩歌や学問に通暁した当代屈指の文化人でもありました。誕生は承和12年(845)6月25日で、当時、政治を担っていた藤原氏からはやや離れた傍流の出でしたが、幼くして詩歌などにその英才ぶりを発揮。やがて官僚として抜擢されます。887年に宇多天皇が即位すると近臣として重用されるようになり、寛平の治(かんぴょうのち)と呼ばれる広範囲な行政改革に手腕を発揮しました。宇多天皇退位後は後継の醍醐天皇(実態は宇多天皇の院政)のもとで右大臣にまで出世しますが、藤原氏嫡流による政権掌握にこだわる左大臣・藤原時平(政治的なライバルでした)の讒訴によって朝廷を追われることになり、九州・筑後の大宰府に左遷されて903年にその地で没します。
 ところが、道真が没した直後から都の周辺では怪異が続発。道真左遷の黒幕とされる藤原時平の急死、醍醐天皇の皇子、皇太孫の急死と続き、朝議中の社殿「清涼殿」への落雷で道真左遷に協力した貴族らが死傷するに至って人々は「道真の怨霊の仕業」と恐れおののきました。祟りを恐れた朝廷は、道真を神として祀ることでその怒りを鎮めようとします。こうして建立されたのが北野天満宮で、以後、菅原道真は神(天満天神)として信仰されるようになり、やがて英才ぶりを讃えられた生前の道真にあやかって「学問の神」となったのです。
 銅像は、東京・江東区の亀戸天神社にあります。亀戸天神社は、本社にあたる九州・太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐(道真の子孫)が、正保3年(1646)に天神信仰を広めるため江戸・本所亀戸村を訪れ、在来の祠に菅原道真所縁の飛梅(とびうめ)を彫って作った神像を納めたことが建立のきっかけとされています。飛梅とは、道真の自宅に植えられていた梅が左遷される道真を慕って一夜のうちに太宰府まで追っていったとされる伝承の梅の木で、それに因んで亀戸天神社にも紅梅50本、白梅150本が植えられ、開花の季節には多くの人々の目を楽しませています。また亀戸天神社は、社殿・楼門を始め、正面大鳥居から本殿へと続く参道にもなっている太鼓橋なども太宰府天満宮に倣って造営されており、西の太宰府に対し「東宰府天満宮」とも呼ばれています。
 銅像は、心字池にまたがる太鼓橋(大鳥居に近い男橋と本殿に近い女橋の二つが連なっています)の袂にあり、場所は女橋を渡りきってすぐの本殿に向かって左側です。5歳の頃の姿を描いた立像で「五歳の菅公」と題されています。菅公は菅原道真の敬称で、昭和52年(1977)に御神忌壱千七十五年の大祭を記念して建立されました。像は稚児装束姿で手には筆と短冊を持っており、像の台座には「美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」という歌が刻まれたパネルが埋め込まれています。平安時代の子供の像は題材としても非常に珍しいといえるでしょう。


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