お茶の水~江戸川橋 |
今回は文京区の2回目。お茶の水から江戸川橋にかけて銅像を巡ります。お茶の水一帯は、江戸時代初期に治水兼用の掘割工事などが行われた結果、渓谷の風情を備えるに至り、また近隣の寺から湧水があり、これを茶の湯の水として将軍に献上したことからお茶の水の地名が生まれました。江戸時代は大名屋敷や拝領地などが多く存在し、清く豊かな水に恵まれたことから医学にも縁の深い土地です。江戸川橋は、江戸川(現在の神田川)に架かっていた橋が名の由来。利根川水系の江戸川とは別の川です。江戸時代から流域がしばしば洪水に見舞われ、大正時代に至るまで、その治水は住民の悲願でした。
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● 孔子 (BC551~BC479)
■建立:1975年
■製作:開明徳
孔子は、紀元前の中国・春秋時代の思想家です。氏は孔、字は仲尼(ちゅうじ)ですが、一般的には孔子(孔先生という意味)と呼ばれています。出自には諸説あり、またどのように学問を積んだのかも不明な点が多いのですが、有名な歴史書『史記』では52歳で魯国の宰相になったという記述があります。のちに国政を離れて多くの弟子とともに諸国を巡る旅に出ますが、これは苦難の旅になりました。この間に仁・礼を規範とする国家の理想像を得るに至りました。官僚として国政にたずさわることを望みましたが叶わず、不遇のうちに世を去りました。しかし孔子とその高弟の言行録『論語』は、後にヨーロッパの啓蒙思想家に大きな影響を与え、また国家経営や官吏の道を学ぶテキストともされました。
銅像は、湯島聖堂の敷地内にあります。湯島聖堂は儒学振興を目的として徳川綱吉が建設を命じたもので、後に幕府直轄の教育機関「昌平坂学問所」へと発展します。明治維新により儒学教育の機関としての歴史は幕を閉じますが、その地には日本初の博物館(現在の東京国立博物館)や日本初の図書館が置かれたほか、東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)などが設置され、近代教育萌芽の苗床となりました。現在は国の史跡に指定されています。
像の場所は、仰高門から入り、楷の巨木が見える通路を少し入った斯文会館の真裏になります。昭和50年(1975)に中華民国台北市ライオンズ・クラブより贈られたもので、台湾師範大学の開明徳教授の製作です。高さは4.5メートルあり、孔子の銅像では世界最大のものだそうです。また楷の木は孔子と縁が深く、孔子の墓所や孔子を祀った孔子廟や像のそばに植えることが習わしとなっているようです。枝葉の様子に均整のとれた美しさがあり、楷書体の元になったといわれます。
■建立:1958年
■製作:朝倉文夫
嘉納治五郎は、明治から昭和初期にかけて活躍した柔道家、教育者です。幕末の万延元年(1860)に摂津御影村 (現在の神戸市東灘区御影町)の名家の三男として誕生。明治に入ると、政府に招聘された父に付いて上京し、明治10年(1877)には東京大学に入学します。小柄だった治五郎は柔術の道を志しますが、師と仰げる人物はなかなかみつからず、やがて江戸末期から続く天神真楊流柔術の福田八之助と出会います(後に流派家元の磯正智や起倒流柔術の飯久保恒年に師事)。天神真楊流は、起倒流と共に、後に治五郎が創始する講道館柔道の基礎となりました。治五郎は修行と研究の結果、二流派の理論を整理・統合して独自の流派を編み出し、明治15年に柔道場“講道館”を設
立します。現在も続く日本柔道の隆盛の礎となった講道館柔道の誕生です。
また講道館設立と同年に学習院教頭に就任するなど、柔道の普及とともに教育にも力を注ぎました。他の武道の研究にも熱心で、スポーツ振興にも自ら率先して尽力するなど、日本における近代スポーツの普及にも大きな役割を果たし、明治42年(1909)には日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)の委員になっています。
東京オリンピックの招致に成功するなど、大きな功績を残した治五郎でしたが、昭和13年(1938)IOC会議からの帰途、氷川丸の船内で死去。77歳でした。治五郎の悲願であった東京オリンピックは、戦争のため開催権の返上という無念な結果となりましたが、戦後に改めて開催されます。没後26年目の昭和39年(1964)のことでした。
銅像は、文京区本郷の講道館本館前にあり、白山通りに面して置かれています。この銅像は再建されたもので、最初の建立は昭和11年(1936)で、嘉納治五郎の喜寿を記念し、朝倉文夫の手により製作され、旧東京文理科大学本館前広場で除幕されました。紋付羽織姿の凛として緊張感のある立像です。しかし、これは戦時中の金属供出で行方不明になり、戦後、朝倉文夫の手元に残された原型を元に昭和33年に復元されたもの。講道館本館のほかに旧東京教育大学の跡地に造営された占春園にも同じ原型から復元されたものが建立された。
● 春日局 (1579~1643)
■建立:1989年
春日局(かすがのつぼね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の女性で、徳川幕府三代目将軍、徳川家光の乳母を務め、家光が父秀忠の後継者となり、将軍職に就任するにあたって大きな功のあった人物です。
春日局は美濃守護代を務めた名族、斎藤氏の一流の出身で、天正7年(1579)、明智光秀の重臣・斉藤利三の娘として誕生しました(母は戦国武将として知られる稲葉一鉄の娘)。本名は福(ふく)といいます。父が明智光秀の謀反に連座して処刑されると一族はばらばらになりますが、福は難を逃れて一時母方縁者の公家の下で養育され、後に伯父の稲葉重通の養女になります。成長した福は、稲葉一鉄の係累である稲葉正成と結婚。武将の妻としての幸せを手にしたかに思われましたが、公家教育を受けた福の高い教養に注目した徳川将軍家が秀忠の子・竹千代(後の家光)の乳母に指名したため、夫と離縁して江戸城に入りました。春日局の名は、後に宮中に参内した際、朝廷から賜ったものです。
竹千代の乳母としては、弟の国松が両親の寵愛を受けていることに悲観して自害しようとする竹千代を諌め、将軍後継者としての自覚を諭した、というエピソードが有名です。その一方で、大奥では御年寄りとして公務を仕切るなど、実務や統率の面でも力を奮いました。その後も大奥の制度の整備や、家光の側室探しにも尽力するなどし、寛永20年(1643)年、64歳で世を去りました。
銅像は文京区春日の礫川公園(文京区役所の向かい)にあります。春日の地名は、春日局が家光より土地を拝領したことに由来するそうです。昭和64年(平成元年/1989)にNHK大河ドラマ『春日局』が放映されたことを契機として、地域振興などを目的とする事業の一環として製作が決定。平成元年に建立されました。
台座付きで、扇を持った立像です。春日局(福)が乳母になったのは25歳ごろのことですが、銅像も若さを感じさせる姿で、お局様というよりお福様と呼びたいような像です。時代が新しいだけあって、現代的な雰囲気の面立ちが印象的です。
■建立:1928年
大井玄洞(おおいげんどう)は、幕末から昭和初期にかけて活躍した薬学者・陸軍薬剤官。政治家でもありました。加賀藩医の子として幕末の安政5年(1855)に生まれ、藩校で英語を習得するなど勉学に精進します。明治維新後は大学南校(後の東京大学)でドイツ語を学び、後にドイツ語通訳やドイツ語で書かれた薬学関係の専門書の翻訳などで活躍。
故郷の金沢医学校で薬学を教えるなど教育にたずさわったのちドイツ留学を果たします。帰国後は陸軍で二等薬剤官となったのを皮切りに薬剤関係の実務に従事、明治32年(1899)に予備役となるまで師団軍医部に在籍しました。
陸軍退役後は小石川に住居を設け、衛生材料の商いのかたわら区議会議員を務めるなどします。この間に、洪水が頻発していた江戸川(現在の神田川)の治水工事に尽力。大正2年に着工した護岸工事が完了したのは6年後のことでした。昭和5年(1930年)に亡くなりましたが、最晩年まで民生に心を配っていたといわれています。
銅像は神田川沿いにある江戸川公園にあります。神田川治水事業での功績を讃えて製作されたもので、昭和3年に建立されました。台座付きの胸像で、晩年近くの姿を描いたものです。
● 鳩山一郎 (1883~1959)
■建立:2007年1月(除幕)
■製作:ツェレテリ・ズラブ・コンスタノビッチ
鳩山一郎は、大正から昭和にかけて活躍した政治家です。政治家だった父・鳩山和夫の死後、大正元年(1912)に東京市会議員に当選。3年後、立憲政友会の公認を受けて衆議院議員に当選します。以後、政治家として国政に従事しますが、時代は軍部の台頭などで民主政治が危機的状況にあり、文部大臣を務めていた昭和6年には五・一五事件に遭遇。東條英機内閣を非難するなどして隠遁を余儀なくされ、戦後は日本自由党を結成して政界復帰を果たすもののGHQにより公職追放の措置を受けました。
昭和26年(1954)に追放が解除されると日本民主党を結成して総裁となり、翌年には第52代内閣総理大臣となります。しかし「鳩山人気」「鳩山ブーム」と呼ばれるほど国民の人気は高かったものの政権は不安定で、解散と組閣を繰り返し、昭和31年末、国境確定を先送りにしたままの日ソ共同宣言による国交回復をもって第3次鳩山内閣が総辞職。そののちは政治の表舞台から退きました。
癇癪持ちだったといわれる反面、志を同じくする政治家たちの信頼は厚く、また全体主義を批判した思想家、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が提唱した「友愛革命」思想に感銘し、孫にあたる鳩山由紀夫総理(平成21年12月時点)にも受け継がれている「友愛」という言葉を提唱したことでも知られています。
銅像は、文京区音羽の鳩山会館(鳩山家の旧邸宅。庭園つき西洋建築で音羽御殿とも呼ばれた)にあります。台座付きの立像で、「日ソ共同宣言・日ロ国交回復50周年」に際して、国交回復に尽力した鳩山一郎の銅像建立が決定。ロシア美術アカデミーの総裁でもある彫刻家・絵画家のツェレテリ・ズラブ・コンスタノビッチの手により製作されました。
■建立:1930年
■製作:朝倉文夫
鳩山和夫は、明治時代の政治家です。幕末の安政3年(1856)に美作勝山藩士の家庭に生まれ、明治維新後は学門を志して開成学校(のちの東京大学)に進み、アメリカ留学も経験。コロンビア大学、エール大学で法学を学び、博士号も取得しています。帰国後は教育者や弁護士として活躍し、明治18年(1885)に東京府会議員に当選したのをきっかけに政治の世界にも進出します。衆議院議長を務める一方で、当時、開発が急務となっていた北海道開墾にも大きな影響力を示しました。後に早稲田大学の総長も務めましたが、55歳という若さで死去。政治家として日本の近代化・民主政治の発展に向けた思いは長男の一郎に受け継がれることになりました。
夫人の春子は、文久元年(1861)に信州・松本藩士の五女として生まれ、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)卒業後、明治14年(1881)に鳩山和夫と結婚。5年後に、津田梅子(津田塾大学創始者)らとともに共立女子職業学校(現・共立女子大学)の設立に参加するなど、女性の教育や職業進出に尽力しました。
夫妻の銅像は、彫刻家・朝倉文夫の手によるもので、鳩山和夫は台座付きの胸像、春子は全身の座像と様式は異なりますが、仲良く並んで大きな台座に一体となって置かれています。