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TOKYO銅像マップ

日暮里~南千住

太田道灌

橋本左内

 今回は荒川区の銅像を訪ねます。荒川区は平坦な地形で、北は隅田川に接しています。江戸時代に開発が進んだ地域で、日暮里周辺は、含水地を掘り進めるために掘割(地面を掘る)を造りながら開墾したことから、当時は新堀と呼ばれていたそうです。自然にも恵まれた新堀は、歌人や風流を好む市井の人々が散策場所として愛したことから、やがて「風流人が日暮れの時も忘れて遊ぶ里」という意味を込めて日暮里と命名されたといわれています(諸説あり)。
 南千住は荒川区の東端に位置し、江戸時代には日光街道にアクセスする宿場町として栄え、明治以降は隅田川を流通インフラとする海運と陸運の中継点としても重要な役割を果たしました。なお江戸時代には平地が広がっていたことから、市街地には設置できなかった処刑場(小塚原刑場)が設けられ、刑死した人々を弔うために多くの寺院が造られました。

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太田道灌 (1432~1486)

建立:1989年12月
製作:橋本活道(号・名鷲岳了)
 太田道灌は室町時代の武将で、武人としてのみならず文化人としても多くの足跡を残しました(詳細は千代田区「皇居~東京駅周辺」や新宿区「早稲田~新宿」の銅像紹介にもありますので、そちらをご参照ください)。
 今回紹介する銅像は、JR日暮里駅の駅前ロータリーにあります。円柱状の台座がついた高さ約8メートルの騎馬像で、都内の道灌像としては最大のものです。僧侶でもある彫刻家・橋本活道氏(北村西望の弟子でもあります)の製作で、狩衣装束で右手は手綱、左手は弓を持って高く掲げ非常に躍動感があります。獲物を射た道灌が、同行者に誇らしげな顔を見せた瞬間、というイメージでしょうか。有名な山吹伝説は、狩りの際に雨に降られた道灌が農家に立ち寄った際のエピソードなので、それを考えると像の姿は和歌への精進を決意するきっかけとなった出来事へと繋がる、まだ武人らしさ全開だった道灌の雄姿とも思えます。
 設置は1989年で、東京荒川ライオンズクラブ会員有志による寄贈で、寄贈者名と東京都知事・鈴木俊一氏による書が刻印された石板も設置されています。

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橋本左内 (1834~1859)


建立:2010年3月23日
鋳造:菓子 満
 橋本左内は江戸時代末期の思想家で幕末の志士の一人です。天保5年(1834)に福井藩士の子として生まれ、15歳の時に大阪に出て緒方洪庵らより蘭学(主にオランダ医学)を学ぶ一方、後に倒幕の旗頭となる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)や水戸学の推進者・藤田東湖といった思想家、政治家らとの交流も深めていきます。福井藩中でも随一の俊英として高く評価された左内は、やがて若くして福井藩主・松平春嶽の側近となり、早期の幕政改革や開国の必要性を訴えます。しかし、安政6年(1859)、大老・井伊直弼が主導する安政の大獄において、幕政批判と将軍家継嗣への介入を咎められ、処刑されました。享年26。その墓所は故郷の福井市のほか南千住の回向院(刑死した吉田松陰らとともに葬られた寺院)にもあります。
 銅像は、南千住の荒川ふるさと文化館(南千住図書館と併設)の敷地内にあります。この像は福井県から荒川区に寄贈された陶製の座像が原型となっています。2009年に左内の墓所である回向院より墓を覆っていた套堂(さやどう)が荒川ふるさと文化館敷地に移転・保存されることが決まったことを契機として、交流のあった福井市より陶製座像が寄贈されました。これを原型として、自ら美術鋳造研究所を運営し、像の修復等でも活躍する鋳金家・菓子満(かし みつる)氏の手でブロンズ像が製作され、套堂内に収められました。
 像の大きさは高さ約57センチと小ぶりですが、20代にして福井藩の将来を担う逸材とされた人物らしい、凛とした風貌が印象的な像です。套堂は文化館前の歩道に面しており、常時、像を観覧することができます。


太田道灌 橋本左内