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皇居~東京駅周辺

楠木正成

太田道灌

渋沢栄一

井上 勝

皇居の周辺は、銅像銀座と言っても過言でないほど多くの銅像がありますが、今回は、皇居前広場と東京駅近辺の銅像を紹介しましょう。
東京駅は、鉄筋煉瓦造り3階建ての洋式建築の駅として丸の内に建設、1914年に開業しました。ちょうど第一次大戦開戦の年にあたり、ドイツ租借地だった青島を占領した陸軍司令官神尾中将の凱旋にタイミングを合わせて開業式を行ったそうです。当時の丸の内は建物もほとんどなく、駅前から皇居全体が見渡せたといいます。現在は数多くのビルが立ち並び、「野原だった」という当時からは想像もできない発展を遂げています。駅に乗り入れる鉄道も大幅に路線が増え、こうした発展に対応して東京駅にも様々な改修が施されています。
なお2008年11月現在も丸の内口周辺の改修工事が進んでいますが、以前、駅前に置かれていた井上勝(長州藩出身、明治政府の閣僚として鉄道の発展に尽くし、日本鉄道の父と呼ばれる)の像は工事のため撤去されているため今回は除外しました。工事完了後に像が戻ったら、改めて紹介したいと思います。

(写真をクリックすると説明もご覧になれます)

楠木正成 (不詳~1336)

製作:高村光雲
完成:1897年1月 建立:1890年
 楠木正成(銘板は楠 正成)は、鎌倉幕府時代末から南北朝時代初期にかけて活躍した武将です。河内周辺を根拠地とした独立性の強い豪族・武士集団、いわゆる「悪党」の出身ともいわれますが、出自には謎が多い武将です。後醍醐天皇が企図した反北条・反鎌倉幕府の運動に荷担。鎌倉幕府滅亡の端緒となった千早城籠城戦で名を上げ、足利尊氏と後醍醐天皇の対立が激化した後も官軍の中心人物として戦いましたが、湊川の合戦で寡兵をもって善戦するも討ち死にしました。
 『太平記』では尊王の志厚い忠義の武将として描かれていますが、「政権の安定を考えるなら新田義貞を排除して足利尊氏と結んだほうがよい」という現実的な考えをもっていたという説もあります。
 銅像は、明治23年(1890)に住友財閥の第14代住友吉左衛門(住友友親)の発案により、当時岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)に製作を依頼。同校の彫刻科教授であった高村光雲らが中心となって製作にあたりました。完成は明治30年(1897)、明治33年に現在の皇居前広場に建立されました。
 像の姿は、六波羅探題滅亡後、新政権樹立のために京都に向かう後醍醐天皇を出迎えた時を描いたもので、高さ3.96メートルの堂々たる騎馬武者姿です。武者銅像の極致とも言えるダイナミックかつ精緻な銅像で、馬具や甲冑の造形はもちろん、口を結んだ大楠公(楠木正成)の緊張感あふれる表情や馬体の隅々に至るまで、まったく隙のない描写は見ていてため息が出るほどです。

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太田道灌 (1432~1486)

製作:朝倉文夫
建立:1956年10月1日 除幕:1958年2月
 太田道灌(太田資長)は室町時代後期の武将で、武蔵一帯を支配していた扇谷上杉氏の家宰として主家の発展に尽力しました。1457年に江戸城を建設したことでも知られる文武に優れた武将であり、歌道に通じた風流人でもありました。一方でかなりの自信家でもあったと言われ、多くの武勲や功績により主家の威勢を上回るほどの声望を得ますが、それが原因で暗殺されてしまいます。その際に「当家滅亡」(自分が死ねば支えを失った扇谷上杉家は滅亡するという意味)と叫んだと言われ、その予言の通り、扇谷上杉氏は後北条氏の勢力拡大の波に飲み込まれてしまいます。
 銅像は数体作られていますが、今回紹介するのは丸の内の東京国際フォーラム内の展示場入り口に設置されている立像です。これは東京の開都500年を記念して企画されたもので、朝倉文夫の製作により昭和31年(1956)に完成。狩りの装束姿を描いたもので、武人の威風の中に風雅の雰囲気を感じさせます。完成当時、丸の内にあった東京都庁第1庁舎正面に置かれました。後に都庁は新宿に移転しましたが、像は跡地に建設された東京国際フォーラムに置かれて現在に至っています。

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渋沢栄一 (1840~1931)


製作:朝倉文夫
建立:1955年11月
 渋沢栄一は江戸時代末期の天保11年(1840)武蔵国(現・埼玉県深谷市)に生まれ、のちに一橋慶喜に従って幕臣となります。明治維新以後は政府の官僚として財務・経済政策に携わりますが、大隈重信らとの対立を契機として下野し、実業家として数多くの民間企業の設立や金融業の指導に尽力。日本資本主義経済の父と呼ばれています。また慈善事業や民間レベルの外交活動にも尽くすなど活動は幅広く、2度ノーベル平和賞候補になっています。亡くなったときは91歳という長寿でした。
 像は東京駅丸の内口から少し歩いた首都高速近くの常盤橋公園にあります。この像は2代目で、初代は朝倉文夫の製作により昭和8年(1933)11月11日(渋沢の命日)に完成。現在と同じ場所に建立されましたが、大戦時の金属供出により失われ、昭和30年に再び朝倉文夫の製作で再建されたものです。また生誕地である埼玉県深谷市には、深谷駅前の和服姿の座像、旧渋沢邸にある立像のほか多数の像があります。

井上 勝 (1843~1910)

製作:朝倉文夫
建立:1914年11月
再建:1959年10月
移設:1963年4月
移設:2017年12月
 太田道灌(太田資長)は室町時代後期の武将で、武蔵一帯を支配していた扇谷上杉氏の家宰として主家の発展に尽力しました。1457年に江戸城を建設したことでも知られる文武に優れた武将であり、歌道に通じた風流人でもありました。一方でかなりの自信家でもあったと言われ、多くの武勲や功績により主家の威勢を上回るほどの声望を得ますが、それが原因で暗殺されてしまいます。その際に「当家滅亡」(自分が死ねば支えを失った扇谷上杉家は滅亡するという意味)と叫んだと言われ、その予言の通り、扇谷上杉氏は後北条氏の勢力拡大の波に飲み込まれてしまいます。
 銅像は数体作られていますが、今回紹介するのは丸の内の東京国際フォーラム内の展示場入り口に設置されている立像です。これは東京の開都500年を記念して企画されたもので、朝倉文夫の製作により昭和31年(1956)に完成。狩りの装束姿を描いたもので、武人の威風の中に風雅の雰囲気を感じさせます。完成当時、丸の内にあった東京都庁第1庁舎正面に置かれました。後に都庁は新宿に移転しましたが、像は跡地に建設された東京国際フォーラムに置かれて現在に至っています。


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