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竹橋周辺

北白川宮能久親王

吉田 茂

和気清麻呂

千代田区第3弾の今回は、竹橋周辺の銅像を探訪します。竹橋の名が広く知られるようになったのは徳川家の関東入府頃からですが、地名自体は古くからあるといわれ、名の由来は編み竹の小さな橋があったためとも、この地に所縁のある人物の名が変じたとも云われ、明らかではありません。現在の竹橋は、皇居を望む観光スポットとして国内外の観光客が訪れているほか、首都高速のジャンクションや幹線道路が交差する交通の要所としても大きな賑わいを見せています。また、靖国神社のある九段からも1キロメートルほどと近いので、一緒に見てまわるのも良いかもしれません。

(写真をクリックすると説明もご覧になれます)

北白川宮能久親王 (1847~1895)

製作:新海竹太郎
建立:1903年1月26日
 幕末から明治時代中期にかけて、時代の激変の中を生きた皇族です。伏見宮邦家親王の第9皇子として誕生しましたが、若くして仏門に入りました。その後、徳川慶喜の助命嘆願や蜂起した彰義隊に擁立されるなど幕府寄りの立場をとり、ついには奥羽列藩同盟の盟主に担ぎ出されたため、同盟崩壊後、謹慎・蟄居の憂き目に遭いました。
 明治維新後は還俗し、1872年(明治5)に北白川宮家を相続しました。のちにドイツ留学を果たし(ここでも婚約問題でひと悶着を起こして帰国・謹慎)、その後は陸軍将校として軍務に精勤します。
 日清戦争後の1895年(明治28)、近衛師団長(当時陸軍中将)として、ドイツより割譲された台湾の征討任務で海を渡りますが、現地で病を得て亡くなりました。征討作戦中の死であったことから、外地で皇族が戦没した初めての例となりました(死後陸軍大将に特進)。紆余曲折に彩られた数奇な人生を歩んだ人物といえるでしょう。先進国ドイツに学ぶため国策機関として設立された獨逸學協會の初代総裁に就任、学校設立(現在の学校法人獨協学園の前身)に尽力したことでも知られています。
 銅像は北の丸公園内の国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)近くの木々の間に隠れるように建っています。建立されたのは没後の1903年(明治36)で、製作は新海竹太郎。実は新海竹太郎は軍人を志して近衛騎兵大隊に入隊していたという経歴があり、北白川宮が台湾にあった当時もその近くに仕えていたそうです。建立当時は北の丸内に駐屯していた近衛歩兵第一・第二連隊正門前にありましたが、後に現在の場所に移されました。
 作戦指揮にあたる勇壮な姿を模した乗馬像で、右手に手綱、左手に双眼鏡を持ち、馬は躍進中と思われる躍動感たっぷりの姿で見応えがあります。馬の足元には地面の一部も造形され、戦場の情景といった雰囲気も漂う像です。

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吉田 茂 (1878~1967)

製作:舟越保武
建立:1981年9月
 吉田茂は大正末から昭和にかけて活躍した官僚・政治家です。戦前は外務次官や駐英大使などの要職を歴任し、その間、欧米各国に多くの知己を得て特に米英通として知られましたが、軍部からは「親米英派」としてマークされました。戦後は一貫して日本の復興と世界外交復帰に尽力し、サンフランシスコ講和条約の締結など、持ち前の行動力で日本の政治・外交を牽引しました。しかし、ワンマンな性格と歯に衣着せぬ言動から度々トラブルを引き起こし、中でも予算審議中に野党議員の質疑に対しつぶやいた一言から衆議院解散に至った「バカヤロー解散」は有名です。縁戚には多くの政財界人が名を連ねていますが、現職(2008年12月時点)の第92代内閣総理大臣・麻生太郎は孫(三女の子)にあたります。
 銅像は北の丸公園内にあり、芝生の中にまるで本人がたたずんでいるような雰囲気で建っています。その風貌とコート姿、葉巻好きであったことから「和製チャーチル」とも呼ばれたというエピソードも「なるほど」と思わせる立像です。東京以外にも多数の銅像がありますが、父親の出身地に近い高知県(吉田茂自身は東京生まれ)の高知龍馬空港の敷地内と、神奈川県大磯にある旧吉田邸には袴姿の立像があります。

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和気清麻呂 (733~799)

製作:佐藤朝山
建立:1940年2月
 奈良~平安時代の行政官僚として手腕をふるった人物です。孝謙天皇治世の時代を含め、前半生は不遇でしたが、桓武天皇治世になるとその才能を認められ、数多くの事業を任されるまでになりました。特に有名なのが平安京遷都の進言とその実施で、造営大夫(建設責任者)に任じられて腕をふるいました。没後千余年が過ぎた1851年、孝明天皇よりその功績を讃えられて正一位の官位と護王大明神の神号を贈られ、神に列する一人になりました。和気清麻呂を祀った護王神社は京都市上京区に、出身地の岡山県和気町と不遇時代を過ごした鹿児島県霧島市に和気神社があります。
 写真の銅像は気象庁の建物前の広場にあり、建立は1940年(昭和15)で、紀元2600年記念事業の一環として計画されたものでした。「武」の忠臣として知られる楠木正成像と合わせ、文武の二忠臣像ともいわれます。製作は横山大観にその才能を絶賛された彫刻家佐藤朝山(後に阿吽洞玄々、佐藤清蔵)で、衣冠に帯剣姿の立像です。また岡山の和気神社にも立像があるほか、北九州市小倉の足立山にある妙見神社には立像や、猪の背に乗って湯治に行ったとの故事に因んで猪の背に乗っている珍しい像もあります。