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TOKYO銅像マップ

浅草~両国、梅若公園

勝 安芳

勝 海舟

徳川家康

榎本 武揚

今回の銅像を巡る旅は墨田区です。元々は早くから陸地化が進んでいた北部の向島一帯と、湿地帯から埋め立てなどにより開発が進み、陸地化された中部・南部という、異なる地盤を持つ区域で、明治以降に大きく発展。戦後、分かれていた地域が一体となり墨田区となりました。区内には河川が多く、特に東に荒川、西に隅田川が流れる三角形の地域は水運や商業で発展し、中でも屋形船観光で有名な隅田川沿いには南から国技館や江戸東京博物館のある両国、東京スカイツリーのある押上、川をまたいで浅草寺のある浅草、さらに北には百花園のある向島といった観光名所があるほか、かつては梅林があり、現在は梅若公園など数多くの公園が整備されている白髭周辺など、日本の古き伝統や歴史に関わる事物があります。今回紹介する銅像もそうした歴史に寄り添うように、人々を迎えてくれます。

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勝 海舟  (1823~1899)

勝 安芳像

建立:2003年7月21日
製作:木内禮智
 勝海舟は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した官僚(幕臣)・政治家です。江戸時代末期の文政6年(1823)、幕府小普請組の旗本、勝小吉の長男として誕生しました。若い頃から剣術に親しみ、家督を継いだ後は蘭学を学びます。その後は気鋭の幕府官僚として新設された長崎海軍伝習所へ入所。また「日米修好通商条約」締結の幕府使節の一員として『咸臨丸』で渡米し、帰国後は神戸に海軍操練所を開設するなど、一貫して幕府海軍の近代化と人材育成に尽力します。一方で土佐藩などからの脱藩者を私塾に受け入れ、後の倒幕運動参加者や明治日本の政治・軍事・経済分野に関わる人物たちとの交流も持っていました。こうした人脈は、官軍(東征軍)が江戸に迫った際に東征軍司令官・西郷隆盛との会見を準備するにあたって大きく役立ち、結果として江戸を戦火から守ることに成功しています。
 明治維新後は政治家として新政府に参加する一方で、幕臣時代にはことごとく対立していたという最後の主君・徳川慶喜(海舟は家慶から慶喜まで四代に仕えました)の地位や生活面の手当て、旧幕臣の不満を抑えるための努力を続けました。明治32年(1899)、76歳で亡くなりました。
 都内で最も大きな銅像が、墨田区役所の広場にあります。銘は「勝安芳像」とあり、明治維新後に改名したのちの名です(海舟は号で、幼名は麟太郎、諱は義邦でした)。生誕地である本所亀沢町に所縁の墨田区で銅像建立の機運が高まり、その偉業を後世に伝えようという市民有志「勝海舟の銅像を建てる会」により、生誕180年を記念して2003年7月21日(海の日)に除幕されました。高さ2.55メートル、台座付きの像は墨田区に本籍を持つ彫刻家・木内禮智(きうち れいち)の手によります。40歳の姿といわれ、鋭く指した指先は、幕府と新政府の対決を乗り切り、これから迎えようとする近代日本の行く末を指示しているかのようです。

勝 海舟翁之像

建立:1974年5月12日
 墨田区にはもう一つ、勝海舟の明治維新後の姿を描いた銅像があります。それが能勢妙見堂東京別院(安永3年=1774年に創建された、大阪能勢妙見山の唯一の別院)の境内にある勝海舟翁之像です。洋装の胸像で、あごに髭を蓄えた壮年期の姿なのですが、青年のような凛とした表情の強さを漂わせているのが印象的です。像の建立は、海舟の父である小吉が息子の開運を祈願して別院にて水垢離をしたこと、その御利益により大怪我の際に九死に一生を得て大成したことなどに因んだもので、江戸時代からの由緒・由来を深く感じられる像と言えるでしょう。別院の創建200年を記念して有志により建立されました。 

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徳川家康 (1543~1616)

建立:1994年4月
製作:山下恒雄
 戦国時代から江戸初期にかけて活躍した武将です。というよりも、徳川家の祖にして徳川家初の征夷大将軍であり、江戸に幕府を開いた歴史の偉人として有名な戦国武将です。天文11年(1543)に三河・松平氏の家系に生まれましたが、当時の松平氏はその領域を織田氏・今川氏に挟まれ、圧迫を受けていました。そのため家康(幼名:竹千代)は織田・今川両氏の人質として長く過ごし、今川氏時代に元服を迎えるなど、後に家康遺訓といわれる一節にある「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし~」がまさに符合するような人生を送ります。
 今川氏の衰退に乗じて独立したのちは織田氏と同盟を結びましたが、この同盟は締結相手の織田信長が本能寺で斃れるまで続きます。後世に「狸」呼ばわりされるなど、権謀術数の限りを尽くした悪役のイメージが作られた家康ですが、この長期の同盟堅持は戦国時代では珍しく、また家康自身も青年~壮年期頃までは戦国武将らしい血気盛んなところも見せています。武田氏相手に大敗を喫した三方ヶ原の合戦では、家臣の反対を押し切って出撃した結果でした。しかし、その後の家康は失敗を糧として領国経営や人材掌握の才を磨き、織田氏に代わって台頭した豊臣氏との対立を乗り切り、事実上の「天下争覇」の戦いとなった関ヶ原の合戦で勝利を勝ち取ります。老境に入ってからの政治的剛腕ぶりから悪役扱いされることが多いようですが、戦国時代最大の巨人であったことは確かでしょう。
 銅像は、東京・両国の江戸東京博物館横の敷地内(正面入り口から向かって左の通路)にあります。江戸東京博物館の開館を記念して社団法人江戸消防記念会から寄贈されたもので、山下恒雄東京学芸大名誉教授(当時)が鍛金(過熱した金属を槌で叩く金属加工法)により製作。台座は、亀に似た幻獣・贔屓(ひき)で、重き荷を背負うのを好むといわれます。ちなみに亀の姿は、河川が走る江戸の町に因んで「水の神」ともいわれる亀の存在をかけたものともいわれます。その上に幕府の将軍職が15代続いたことに因んだ15段の台座を設え、鷹狩り装束の立像が置かれています。像の左手には、家康が好んだという鷹狩りに用いた鷹がとまっているという凝った意匠の像です。

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榎本 武揚 (1836~1908)

建立:1913年
製作:藤田文蔵
 榎本武揚(えのもとたけあき/えのもとぶよう)は、江戸時代末期の幕臣であり明治時代には政治家・軍人として活躍した人物です。幕末の天保7年(1836)に幕臣であった榎本武規の二男として現在の台東区にある通称三味線掘で誕生。徳川幕府の官僚、特に整備が急がれていた海軍と国防にその才を発揮しました。
 幼少より学問を好み、昌平坂学問所や長崎海軍伝習所といった先取性の高い教育期間で学んだ後、オランダへの留学を経て幕府海軍の指揮官となりました。戊辰戦争が勃発すると再起を図る同志と共に幕府艦艇を率いて北海道へと脱出。「蝦夷共和国」の樹立を目指したことは有名です。
 函館(箱館)の戦いで官軍に敗北したものの、英語・オランダ語に通じ、幅広い知識を持つ榎本の才能を惜しんだ官軍指揮官・黒田清隆の尽力もあって死を免じられ、のちに明治政府に出仕して内政・外交に手腕を発揮します。富国強兵が叫ばれるなか、農業技術や日本および海外の地勢・地理研究、電気技術の研究開発といった分野へも力を注ぎ、研究機関の設立に尽力しています。中でも自身が国家建設を夢見た北海道の開発とインフラ整備への関わりは良く知られているところでしょう。海軍との関わりも深く、明治13年(1880)に海軍卿に就任していますが、職務の中心は海事・海軍に関する法案などの想起でした。最終階級は海軍中将。晩年は向島に住んで悠々自適の生活を送り、明治41年(1908)に亡くなりました。
 銅像は、東京都墨田区の梅若公園内にあります。榎本は晩年の住居から近かった向島百花園を好み、毎日のように自宅から百花園までの散歩と園内散策を楽しんでいたそうです。銅像のある梅若公園一帯は、かつては隅田川に面した自然豊かな土地で、墨堤と呼ばれる土手を榎本が騎乗で散策していたといわれ、その縁もあり大正2年(1913)、当時は寺の境内であった同地に銅像が建立されました。榎本の死後、明治政府に出仕した旧幕臣らが中心となり建立を発起。外務省敷地内の陸奥宗光像の作者でもある彫刻家・藤田文蔵(ふじたぶんぞう)と田中親光が原型製作を担当しました。鋳造は、上野恩賜公園の西郷隆盛像や高村光雲製作の品川弥二郎像の鋳造も手掛けた平塚駒次郎です。
 台座付きの立像で、高さは約7メートルある堂々たる像です。勲章を佩用した大礼服(服の仕様は、榎本が明治時代最後の改訂となった明治44年制式の制定前に亡くなっているので、それ以前の明治21年制式のものと思われます)を着用し、左手にサーベルの柄を、右手に山形帽を持っています。髭ともみ上げが特徴的な顔の表現や、大礼服と勲章類の緻密さ、立体感がある飾緒など、質感たっぷりの像で見応えがあります。政治家・軍人の像ではありますが、勝海舟と共に幕末を代表する江戸ッ子官僚の典型といわれた人物だけに、どことなく大親分的な風格も感じさせてくれます。


勝 安芳 勝 海舟翁 徳川家康