代々木公園・渋谷 |
東京を評して「コンクリート・ジャングル」などといいますが、実は東京にはかなりの緑があります。小は個人宅のベランダや庭先のプランターの緑から、大は公園までその形態や大きさは様々ですが、特に公園は東京に住む人々の憩いの場としても欠かせない存在となっています。今回紹介する2体の銅像がある代々木公園も、そんな憩いの場所の一つです。前身は明治42年(1909)に陸軍が練兵場として整備した土地で、戦後はGHQの接収を受けるなどしましたが、昭和39年(1964)の東京オリンピックで一部が選手村になったのを機に公園として整備が進められました。約54万平方メートルの面積があり、東京23区の公園で4番目の広さを持つ園内にはサイクリングコースなども設置されており、多くの来園者で賑わいを見せています。
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● 徳川好敏 (1884~1963)
■建立:1964年
■製作:市橋敏雄
徳川好敏(とくがわよしとし)は、明治から昭和にかけて、日本の航空分野の発展のために尽力した軍人です。徳川御三卿の清水徳川家第7代当主・徳川篤守の長男として誕生。高等師範学校附属の小、中学校(現在の筑波附属小・中学校)で学んだのち、陸軍士官学校を経て明治42年(1909)に陸軍工兵大尉となります。翌明治43年、好敏は陸軍の命により日野熊蔵歩兵少尉とともに操縦技術習得と、機体購入のためフランスに派遣されて専門教育を受けます。当時、ヨーロッパでは航空機の発達が著しかったためです。日本人初の操縦士資格を得たのちに帰国。同年12月19日、代々木練兵場(現在の代々木公園)にて、会式一号機(アンリ・ファルマン複葉機)を駆って日本初の航空機動力飛行(高度約70メートル、距離約3000メートル)に成功しました。今年(2010年)はちょうど100周年にあたります。なお、明治44年に完成した日本初の航空機専用飛行場である陸軍所沢飛行場(現在は所沢航空記念公園)でも、その完成を記念した展示飛行を行っています。
その後も一貫して航空畑を歩み続け、航空兵科が独立したのちは工兵科から転じて後進の育成に力を注ぎます。一時期現役を離れるものの、終戦時には陸軍航空士官学校長の座にありました。最終階級は陸軍中将で、長年の功績を賞されて昭和3年(1928)には男爵の爵位も得ています。昭和38年(1963)没。
銅像は代々木公園内にあり、園内順路より少し外れた木々に囲まれた場所にあります。鳥が翼を広げた姿を意匠にした「日本航空発始之地」の記念碑(昭和15年建立)があり、その近くに日野熊蔵の像と共に建てられています。製作発起は航空同人会で、昭和39年に除幕。製作は鋳金家・市橋敏雄の手によります。初飛行以後も一貫して航空発展に尽力した徳川好敏だけに、その姿は飛行服・飛行帽着用で描かれています。
■建立:1974年
■製作:小金丸幾久
日野熊蔵(ひのくまぞう)は、明治から昭和にかけて活躍した軍人・航空技術者です。明治11年(1878)に旧相良藩士の子として熊本県で生まれ、成長して陸軍士官学校に進みます。卒業後は陸軍歩兵科に属し、技術審査部で兵器研究も手掛けています。明治43年には徳川好敏工兵大尉とともにフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校で学びますが、航空機の買い付けは不調に終わり、熊蔵は単身ドイツと交渉してグラーデ単葉機を購入して帰国します。
明治43年12月19日、熊蔵は徳川好敏とともに日本初の動力飛行に挑みます。彼の乗機は自ら買い付けたグラーデ単葉機で、自重・エンジン出力ともアンリ・ファルマン機の半分とコンパクトな機体(操縦席は降着車輪架兼用式で主翼直下に懸吊され、地面すれすれの低位置でした)で約1000メートルの距離を飛行。10万人以上といわれた観客の喝采を浴びました。
その後は、自らの設計による日野式飛行機の開発を行うなど技術開発の分野に力を注ぎ、操縦装置など航空機関係の技術のほか、日野式拳銃に代表される銃器設計にも特許取得の実績を残しました。最終階級は陸軍歩兵中佐で、退役後は困窮と自身の大病との戦いの中で技術開発に挑んでいます。昭和21年(1946)没。なお、地元熊本では、日本初の動力飛行の偉業達成100周年を記念して、ドキュメンタリードラマの制作などの記念事業が行われているそうです。
銅像は代々木公園内にあります。「日本航空発始之地」の記念碑の近くに、徳川好敏の像と並んで建てられています。航空五〇会の発起で昭和49年に建立。長崎県出身の彫刻家・小金丸幾久(こがねまるいくひさ)の製作で、退役が40歳と早く、技術開発の多くを民間人として行っていたこともあり、洋装(スーツ)の姿で描かれています。
● 忠犬ハチ公 (1923~1935)
■建立:1948年
■製作:安藤 士
ハチは、渋谷駅(当時は国鉄、現在はJR)で主人の帰りを待ち続けたというエピソードで知られる秋田犬です。秋田県の大館で誕生したハチは、誕生からおよそ1年後の大正13年(1924)、東京帝国大学(現在の東京大学)農学部で教鞭を執る上野英三郎教授のたっての希望で、東京の教授宅の飼い犬となります。ハチは、上野教授の出勤を自宅で見送るだけでなく、後には最寄り駅の渋谷まで送り迎えをするまでになります。律儀なハチを上野教授も大変かわいがったそうです。しかし、上野教授は翌年講義中に急死。それでもハチは毎日の渋谷駅での送迎をやめることなく、その主人思いの姿が新聞などで報道されると「忠犬」として広く知られるようになりました。亡くなったのは昭和10年(1935)3月、渋谷川の稲荷橋近くで倒れているところを発見されました。死因は病死とも、餌としてもらった焼き鳥の串で内臓を傷つけたことによる臓器機能不全ともいわれ、かなり健康を害していたようです。
銅像は、ハチが通ったJR山手線渋谷駅前の広場にあります。この像は実は2代目で、初代の像はハチが存命中の1934年にハチ自身立会いの下で除幕されました。製作は鹿児島県出身の彫刻家安藤照(あんどうてる)で、日本犬保存会(外来犬種の増加で種の危機を迎えつつある日本犬に関する研究、繁殖管理などの諸事業を行っている)の依頼でした。しかしこの像は第二次大戦中に金属供出で鋳つぶされ(なんと終戦の前日のことでした)てしまい、戦後になって安藤照の子息で彫刻家の安藤士(あんどうたけし)の手で再建されました。再建は1948年のことで、除幕には当時日本の占領政策を担っていたGHQの高官も参加しています。「忠犬ハチ公」のエピソードは、海外でも美談として広く知られており、日米両国で映画化もされた最も有名な日本犬だったのです。
※2013年5月15日、東京五輪招致活動のため現在の設置場所より撤去されます。招致活動後の復旧または移転先は未定です。