広尾~青山一丁目 |
今回からは港区です。港区にも数多くの偉人・著名人の銅像があります。広尾は港区・渋谷区にまたがる住宅地で、かつては広大な野原が続く土地でした。また赤坂、青山一丁目と共に教育機関や外国人居住者が多く集まる町としても知られています。神社や公園も多く、銅像巡りで疲れた足を休ませる傍ら、古き東京の面影を楽しむこともできます。
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● 有栖川宮熾仁親王
(1835~1895)
■製作:大熊氏廣
■建立:1903年
有栖川宮熾仁親王は、明治新政府発足に際して政治・軍事の面で大きな役割を果たした皇族です。「皇女和宮」として知られる親子内親王の最初の婚約者であり、後に徳川慶喜の妹にあたる徳川斉昭の娘貞子と結婚しています。
天保6年(1835)に京都御所内北東の有栖川宮邸で誕生。若くして倒幕運動に理解を示し、長州藩士を始めとする反幕勢力の結集に協力しました。明治天皇の厚い信任を得て、暫定政治指導体制として設けられた三職のトップである総裁を務め、戊辰戦争では江戸を目指す新政府軍を率いる東征大都督の要職にも就きました(品川弥二郎作詞のトコトンヤレ節に唄われている「宮さん」は熾仁親王である)。しかし西南戦争では、鹿児島県逆徒征討総督として九州に渡り、かつて東征の路を共に歩んだ西郷隆盛と対峙する立場になっています。
政治家としての実績も多く、西南戦争の渦中で行われた博愛社(後の日本赤十字社)設立の建策に独自の判断で許可を与え、また福岡を中心として経済を混乱に陥れた贋札事件の沈静化に尽力。元老院議長も務めました。
日清戦争勃発に際し、広島に置かれた大本営に日本軍総司令官として着任しましたが、腸チフスを発症し、明治28年(1895)1月15日、逝去しました。享年61歳。
銅像は、大山巌ら陸海軍の重鎮から建立の建策が出され、陸海軍軍人と一般からの献金を集めて明治36年(1903)、千代田区三宅坂の陸軍参謀本部前で除幕。製作は彫刻家大熊氏廣で、日本の最高勲章である大勲位菊花頚飾(だいくんいきっかけいしょく)を佩用した礼装姿の堂々たる乗馬像です。除幕式典には縁深き徳川慶喜も招かれました。後に道路拡張に伴う区画整理で移築され、現在は港区広尾の有栖川記念公園内にあります。
● 乃木希典 (1849~1912)
■製作:鈴木 達
■建立:1968年
嘉永2年(1849)、長州支藩である長府藩藩士の子として現在の六本木にあった藩邸内で誕生。長じて長府藩報国隊に入隊(後に長州藩奇兵隊へと編入)し、以後軍人としての人生を歩みつづけました。
西南戦争では歩兵連隊長心得として部隊を率いるものの、撤退の渦中で連隊旗を奪われるという失態を演じます。これを恥じた乃木希典は、自ら死を求めるがごとき戦いぶりを見せ、自決さえしようとします。これがかえって「武人の潔さ」として評価されますが、乃木自身は失態の清算を忘れることはなく、大正元年(1912)、崩御した明治天皇に殉死する形で自らを処することになります。
日清戦争では歩兵第十一旅団長として旅順要塞攻略戦に参加(1日で陥落)。しかし第三軍司令官として臨んだ日露戦争では、大小の銃火器、砲台とコンクリートで強化され近代化された旅順要塞を攻め倦み、最終的には陥落させたもののあまりに大きい損失を出してしまいます。指揮ぶりには賛否両論がありますが、攻防戦渦中に起こった「指揮官交代」の論に対し、明治天皇は絶対の信頼を示したといわれており、少なくとも当時最も信頼された陸軍指揮官の一人でした。
銅像は、赤坂の乃木邸(乃木神社内)にあります。これは陸軍少将時代の明治28年、金沢を訪れた乃木が、出会った辻占売りの少年が一家の生計を支えていることを知って当時大金だった二円を渡し、これに感激した少年が努力の末に金箔職人として大成したというエピソードを描いたもの。彫刻家鈴木達の製作で、昭和43年に長府藩邸跡のニッカ池(六本木ヒルズの建築と周辺地域の整備に伴い、現在は毛利庭園内の池の下にある)に建立され、後に現在の場所に移築されました。
● 高橋是清 (1854~1936)
■製作:齋藤素巌
建立:1940年(初代)・1955年(2代目)
明治から昭和初期にかけて活躍した政治家です。嘉永7年(1854)、徳川幕府の御用絵師の子として生まれ、間もなく仙台藩の高橋家へと養子に出されます。成長して後、アメリカ人ヘボンの私塾(後の明治学院大学)で学んだことから渡米留学の志を持ち、勝小鹿(勝海舟の子)とともに旅立ちますが、騙されて奴隷生活を余儀なくされ、明治元年(1868)にようやく帰国しました。しかし、留学で得た知己から文部省に入省。それを皮切りに官僚として活躍し、やがて日銀総裁に就任。日露戦争にあたっては戦費となる戦時外債の募集にも尽力します。
明治38年に貴族院議員に当選したのをきっかけに政治の道に進み、大蔵大臣として昭和金融、世界恐慌といった難局に手腕を示して乗り切りました。柔和な表情と恰幅のいいその姿から「だるまさん」と呼ばれて庶民から愛されましたが、岡田内閣で6度目の蔵相を務めていた昭和11年(1936)、折からのインフレ回復のために行おうとした軍事予算縮小の方針が軍部若手将校の恨みを買います。そして2・26事件で襲撃を受けた高橋是清は、銃撃された後、さらに斬りつけられて絶命。享年82歳でした。
銅像は、港区赤坂にある旧高橋是清邸の敷地に造営された高橋是清翁記念公園内にあります(旧邸の一部は小金井市の江戸東京たてもの園に移築)。晩年の姿を描いた座像で、昭和15年に彫刻家齋藤素巌の製作で建立。しかしこの初代は戦時中に金属供出で失われ、昭和30年に同じ作者の習作を元に再建されました。