人形町~浜離宮 |
中央区は、その名の通り東京都23区のほぼ中央部に位置し、人口・総面積とも23区で2番目に小さい区ですが、江戸時代から多くの河川による物流経済の中心地として重要な位置を占めていました。銀座や日本橋、築地といった様々な物品を扱う「商い」の街が多いことも特徴です。今回はこの中から、人形町などを訪ねてみましょう。
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● 武蔵坊弁慶 (生年不詳~1189)
武蔵坊弁慶は平安時代末期の僧です。一説によると熊野別当(熊野三山の統括職)湛増の子ともいわれますが、一般的には出自不詳で、比叡山で荒法師として武芸に励み、後に源義経の忠実な従者となりました。京の五条大橋での義経との出会いのほか、自刃する義経を守って全身に矢を浴びて絶命した「弁慶の立ち往生」や、向こう脛の痛みの比喩に使われる「弁慶の泣きどころ」など歌舞伎や講談など今も語り継がれている多くのエピソードを持っています。
銅像は、出身地といわれる和歌山県紀伊田辺駅前に僧兵姿のものがありますが、人形町の明治座近く(明治座通りに面した遊歩道)には、江戸時代に歌舞伎を上演した芝居小屋があったことに因んで、歌舞伎「勧進帳(源義経主従が修験者に身をやつして奥州へと落ちのびる途中の、関所での出来事を描いた)」の1シーンを再現した銅像が置かれています。背後には関所を模した冠木門も設けられ、雰囲気を演出しています。
■建立:1988年
江戸時代末期に来日し、医学などヨーロッパの知識を伝えたドイツの医師・博物学者です。現在のドイツ南部ヴュルツブルグで医学の名門の家庭に生まれ、医学を学んだのち、文政6年(1823)に長崎の出島にあったオランダ商館付きの医師として来日します。翌年には鳴滝塾という私塾を開設して日本人に西洋医学を教えますが、1828年に帰国する際、国禁とされた日本地図(大日本沿海輿地全図の縮図)を持ち出そうとしたことが発覚。追放処分になりますが、日本が1854年に開国した後にこの処分は解かれて再来日しています。最初の日本滞在中に生物・民族・地理・気候に関する情報を集め、帰国後に『日本』を執筆。これは日本研究の書として欧米の知識人や軍人たちが愛読し、1853年に浦賀に来航したペリー提督も『日本』を携えており、シーボルトのアドバイスを受けていたといわれます。
銅像は、築地のあかつき公園内にあります。シーボルトの銅像は、やはり長崎に数多く存在しますが、実は出島だけでなくオランダ人の随員として江戸・日本橋の長崎屋に滞留しており、その間に日本人蘭学者に講義を行っています(江戸蘭学所縁の地という)。また、彼が日本でもうけた娘いねが近隣の築地で産院を開業したことなど、縁の深い地であることから都内にもシーボルト銅像が置かれているのです。台座付きの胸像で、昭和63年(1988)に、日蘭友好を目的としてオランダのライデン大学とイサーク・アルフレッド・エリオン財団より寄贈されたものです。
● 親鸞
親鸞は鎌倉時代初期の僧です。浄土宗の開祖といわれる法然を師とし、その教えを継承し、昇華させて浄土真宗開宗への道を拓きました。布教・教化のため、各地に念仏道場を開きましたが、その教えが広まるにつれて既存の仏教勢力や宗派の攻撃の的となりますが、これが逆に浄土真宗の教義と信徒の結束をより強固なものとしたようです(浄土真宗の開宗は親鸞没後)。
銅像は、築地本願寺別院(京都西本願寺の別院)の正門を入って左の駐車場脇にあります。台座も含 めて5メートル余りの立像で、各地の仏教道場を巡って教えを広めていたであろう旅の姿を描いています。
築地本願寺は元和3年(1617年)に浅草近くに建立されましたが、明暦の大火で焼失。同地に再建することが叶わなかったため、八丁堀沖を埋め立てて代替地とし、再建されました(この埋め立て工事が築地の名の由来)。
なお、現在の伽藍は関東大震災後の火災により焼失したものを1934年に再建したもので、古代インド様式の造りは一見の価値があります。
■建立:1894年
■製作:佐野 昭
可美真手尊(うましまでのみこと)は物部氏の祖といわれ、古代日本を記した歴史書の一つである『 旧事本紀(くじほんぎ)』では神武東征において神武軍に協力し、平定に寄与したとされています。以後は、もっぱら武将として天皇に仕えたことから、武神ともいわれます。
銅像は、浜離宮恩師庭園にあります。台座付きの立像で、腕に霊剣「布都御霊(フツノミタマ)」を抱えています。この剣は神武東征の後に下賜された(『旧事本紀』)もので、荒ぶる神を鎮める力を持つといわれ、後には御神体として祭られたといわれます。明治27年(1894)の明治天皇大婚二十五年(銀婚式)の祝典に際し、陸軍省が行った懸賞募集に応えたもので、国会議事堂の柱の彫刻などを手掛けた佐野昭の製作により献納されたものです。
この銅像がある浜離宮庭園は、1654年に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の実弟で甲府藩主徳川綱重が芦原を埋め 立てて屋敷を設けたのが始まりで、現在では国の特別名勝と特別史跡に指定され、一般に公開(有料)
されています。
● 早川徳治 (1881~1942)
■製作:朝倉文夫
■建立:昭和15年(1940)
東京に住み、あるいは東京を訪れる人々の足元を走る交通機関といえば、そう、地下鉄です。その建設に取り組んだ早川徳治(はやかわ のりつぐ)は、現在は「桃の花まつり 川中島合戦祭」でも知られる山梨県笛吹市(当時は東八千代郡)に生まれました。明治14年(1881)のことです。早稲田大学在学中に後藤新平と出会い、後に彼のもとで鉄道事業に関わりを持ったことが縁で、同郷の根津嘉一郎(東武鉄道の創業者)のもとで鉄道経営の手腕を磨きます。早川が地下鉄に注目したきっかけは大正3年の欧州視察で、ロンドンの地下鉄を目の当たりにして東京でも地下鉄事業を実現すべしとの思いを強くしたといいます。
当時は地下鉄への理解が低く、また地盤が軟弱な地下工事の技術的難度の高さ、そして何より資金難など多くの問題がありました。しかし早川は根津ら既知の鉄道事業者らの支援を受けるなどして問題を克服。東京地下鉄道株式会社(後の帝都高速度交通営団、現在の東京地下鉄)を設立し、「クモの巣のような地下鉄道網」の実現を目指します。昭和2年末には、ついにアジア初の地下鉄を開業(浅草~上野)。しかし当時の鉄道省や民間鉄道会社との軋轢などから、昭和16年(1941)には失意のうちに経営の第一線から退きます。そして自らの夢の実現を見ることなく、翌年この世を去りました。
銅像は、日比谷線銀座駅の中二階メトロプロムナード中ほどにあります。ちょっと奥まった場所にあり、柱の陰に隠れるほどの大きさですが、朝倉文夫製作の覇気溢れる人物を感じさせる像です。1940年に、早川の紫綬褒章受章を記念して建立されました。由来書が描かれた台座付きの胸像で、自ら心血を注いだ地下鉄の賑わいを静かに見守っています。同じ像が地下鉄東西線葛西駅にある地下鉄博物館にも飾られています。