編集後記

壁の向こうにあった1945年

 今号所載の「ベルリン空輸」は、古峰文三さんの分かりやすい解説により、その名称はよく知られている歴史的事実の内実を、詳しく振り返る記事となりました。
 届いた原稿を読ませて戴きながら、私は自分がちらりと目撃した旧いベルリンの光景を回想していました。

 以前、「制作こぼれ話(#133号)」でも少し触れましたが、1989年12月、社会人になって数年目の私は激動する東欧情勢に居ても立ってもいられなくなり、年末休暇に有給休暇をくっつけて数週間にわたり東ヨーロッパを旅しました。
 当時勤めていたのは科学技術系の出版社なので、無論仕事の取材というワケにはいかず、ただの個人旅行ということになります。当時としては大胆な休暇の取り方で上司には呆れられましたが、往路の格安便(アエロフロート)だけ取って、あとは成り行き任せのバックパック旅行が平気だったのは、まだ怖いものなしの20代だったからです。
 トランジットのモスクワ一泊を経て年末のベルリンに着きはしたものの、中心街(その頃はツォー駅周辺)のツーリスト窓口に掛け合っても部屋は一切取れません。どうしようかと迷いながら、とりあえずブランデンブルグ門の西側に行くと、すでに前月のベルリンの壁崩壊で観光名所化している同地では、多くの人が壁によじ登り壁を崩していました。私もまた鶴嘴つるはしを振るい、剥ぎ取った数片のかけらを布にくるんで持ち帰ることにしました。
 その際、壁の東側に降り立ち、ブランデンブルグ門からウンター・デン・リンデンを東に望むと、戦前のヒットラーのパレード映像とさして変わらない寒々としたモノクロームの地味な通りが見えます。まあ、これがヨーロッパの冬の風景なのだろうと納得して、一旦西側に戻りました。
 落書きだらけの壁に沿い南に進むと、かの有名なチェックポイント・チャーリーがあり、ここも前月から観光名所化して多くの外国人ツーリストが集まっていました。検問所としての機能はすでに失われフリーに通過できるのですが、パスポートを差し出すとビザ印を押すという、いかにも形骸化した建前だけのお役所仕事がなされていました。つまり、観光地スタンプと同じです。旧ドイツ軍制服みたいな身なりの係官が数名いて、ためしに東側の宿泊所情報を求めたところ、調べもせず一名分だったら大丈夫だろうというのでそのまま東ベルリンに入りました。
 入った途端にまた古めかしく暗い街が現れました。建物は一様にくすんだ色の外壁ばかりとなり、不潔ではないが町並みが極めて殺風景なのです。ところどころガランとした空地があり、そこでようやく、先ほどのウンター・デン・リンデン周辺と同様、瓦礫こそ片づけられているものの、東ベルリンは第二次大戦直後からさほど変化しないままそこにあるのだと気づきました。R・ロッセリーニ監督の映画『ドイツ零年』(1948年)に写された、廃墟だらけのベルリン市内をちょっと片づけた程度の光景がそこにあったのです。
 テレビ塔と市庁舎のある中心部だけはやや現代的な都会の街並みですが、そこを外れるとまた街灯も薄暗く人気のない通りが続き、ロビーだけ薄明るいいくつかのホテルを何軒か尋ねましたが部屋はありません。その日は地下鉄で再び西ベルリンに戻り、地下鉄構内と隣接する地下街で多くのバックパッカーらと野宿になりました。一時的に、観光客が激動のベルリンを見ようと集まっていたので、宿も満員だったのです。地上の気温は零下でした。
 翌日早朝、三たび東ベルリンに入り郊外線に乗って東独内部に向かうとき、現在は世界遺産としてきれいに整備されている博物館島に、戦前の姿のままの古い薄汚れたレンガ建築群が、まるで1930年代を再現するように肩を寄せ合っているのが見えました。あたかもそこに、ドイツの20世紀前半が凍結しているかのような光景でした。
 この旅行では、あまりおめでたくフラッシュも焚けないだろうと思い、高感度ASA400とASA800のフィルムを揃えて行きましたが、これが裏目に出ました。撮影済みフィルムは鉛の袋に入れていたのですが、すでに開封前の段階、往路モスクワの空港で強いX線を受けたらしく、すべて被りを生じていました。
 歴史の転換点で目撃した旧いベルリン。撮影は失敗しましたが、私の脳裏には、数年後には失われ、生まれ変わるまぼろしのようなあの街の景色が小さく折り畳まれ、しまわれています。

(by 老兵バーク/169号)

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