福沢諭吉の居合
一万円札で有名な福沢諭吉は、幕末期に緒方洪庵の適塾で学び、慶応義塾を創設した我が国における近代的学問の巨頭として知られる。だが、意外にも彼に武道の心得があったということはご存知だろうか。
「刀など前時代的な野蛮なもの」として明治の廃刀令に真っ先に従い、率先して帯刀を廃した福沢諭吉だが、60歳代でも居合は毎日一時間ほどみっちりと抜いていたという。彼の健康法は、この「居合」と「米搗き」さらに「散歩」で、これらは授業の前の日課だったようだ。なぜそんなことがわかるのかと言えば慶応義塾(大学)剣道部発行の同人誌(昭和4年第1巻発行)に福沢先生の思い出として彼から直接教わった多くの塾生が証言しているのだ。
だが学者の抜く居合など、所詮その腕は大したことがないのではないかと考えはしないだろうか? ところがどうやらそうでもなさそうなのだ。
実は、近代剣道の天才として知られる中山博道が「福沢先生の居合は凄かった」と同誌の座談会の中で証言しているのである。中山博道は剣道の天才であるだけでなく、居合抜きという武術を居合道として大成した武道家として知られる。
幕末、桂小五郎が塾頭・師範代を務めたことで有名な、神道無念流・練兵館はその道統を長岡藩士で戊辰戦争でも活躍した根岸信五郎が引き継ぐが、その信五郎の師範代として創設間もない慶応義塾剣道部に派遣されていたのが、若干20代の中山博道であったのだ。
同誌の記述によると、このとき博道は剣道に熱心でまだ居合に対する興味はなかったようだが、剣道部の稽古をのぞきに来た福沢塾長が皆の前で居合を抜き、その玄人はだしの太刀風に博道が感動したという。もっとも塾生OBの前では悪くは言えなかっただろうが、博道の性格から考えてもダメなものを良いとは言いそうもない。
とすれば、中山博道が後年、居合を熱心に研究・実践するきっかけになったのが福沢諭吉の居合といえなくもなく、諭吉は学問だけでなく武道でも現代に大きく遺産を残したことになる。
ちなみに諭吉の居合は立身新流。その源流である立身流は佐倉藩に連綿と伝えられ、現在、千葉県無形文化財として地元の人々に愛されている。
(by 三左衛門/歴史群像108号)