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高知―幕末期に数多くの志士たちを輩出した南国土佐の城下町」 
高知城
別名・通称 大高坂山城、河中山城、高智山城
城郭構造 梯郭式平山城
築城主 山内一豊
築城年 慶長8年(1603)本丸と二ノ丸まで完成。山内一豊が入城。
慶長16年(1611)三ノ丸工事が終了。ほぼ全城郭が整う。
主要改修者 山内豊敷
主要城主 山内氏
廃城年 明治4年(1871)
現在の天守 望楼型、4層6階木造。
現存(慶長6年築、寛延元年再建)
所在地 高知県高知市丸の内1-2-1
問い合わせ先 Tel 088-824-5701(高知城管理事務所)
アクセス JR土讃本線・高知駅から徒歩約25分。
土佐電鉄またはバスで約10分、県庁前下車から徒歩5分。
*幕末動乱期に活躍した錚々たる人物ゆかりの城下町*
 南北朝時代、豪族・大高坂松王丸がこの地に城を構えたのが始まり。この時、砦ほどの規模しかなかったといわれる。その後、北朝との戦いに敗れ廃城となっていたが、安土桃山時代になり、一時は四国全土を領した長宗我部元親が天正15年(1587)に築城した。しかし、度々の洪水の被害により、元親は桂浜の近くに浦戸城を築き、3年で移っている。
 現在の城郭は関ヶ原の戦いの功績により、遠州掛川から土佐24万2000石の太守に抜擢された山内一豊の築城によるもの。当初、一豊は長宗我部氏の居城であった浦戸城に入城したが、この地は海辺が近く城下町を形成できないため、廃城となっていた大高坂山に新しく近世城郭を築いた。本丸の造成とともに河川の治水工事を行い、鏡川、江の口川の河川を外堀とした町割りが形成された。慶長8年(1603)に本丸と二ノ丸の石垣が完成。この年に山内一豊が入城し、盛大な入城式が催されている(河中山城と改名)。慶長10年(1605)に一豊が亡くなった後も2代忠義の手によって工事が続けられ、慶長16年(1611)に三ノ丸工事が竣工、着工以来10年目にしてほぼ全城郭が整った(高智山城と改名)。
 享保12年(1727)の城下町の大火により、追手門以外のほとんどの城郭を焼失している。8代藩主・山内豊敷(とよのぶ)は、享保14年(1729)から再建に着手、寛延元年(1748)に天守をはじめ、櫓・城門などが完成した。現在の建物はこの時のものだ(最終的に全城郭が完成したのは宝暦3年のこと)。
 明治4年(1871)に廃城となった後は、公園化のため一般に公開され、多くの建造物が撤去された。その際、天守および追手門など15棟のみが残された。その後、度重なる自然災害や太平洋戦争の空襲の危機を乗り越え、創建当時の形がほぼ完全な形で残っている全国でも有数の名城だ。山内一豊から16代最後の藩主・豊範(とよのり)にわたり土佐を領し明治に至っている。坂本龍馬をはじめ幕末期に活躍した錚々たる人物を世に送り出した土佐。高知市街は戦災によって、ほぼ古い建物が失われてしまったが、随所に維新の志士たちゆかりの地が残され、幕末~明治維新にかけての歴史探訪が楽しめる街だ。

※現在の高知市の人口は約34万人。高知県の県庁所在地として県人口の約4割が集中する政治・経済・文化の中心だ。同市への主要交通はJR土讃本線(高知駅)、高知自動車道(高知IC)、国道32号線、土佐龍馬空港など。



山内一豊(イラスト=藤生ゴオ)

山内一豊


高知城空撮写真


Ⅰ 城郭の見どころ


Ⅱ 町の見どころ


Ⅲ 坂本龍馬を訪ねて

高知城 山内一豊の妻像 板垣退助像 山内一豊像 喫茶さいたにや 坂本龍馬先生誕生地の碑 龍馬の生まれたまち記念館 山内神社 旧山内家下屋敷長屋展示館 後藤象二郎誕生之地碑 板垣退助誕生之地碑 日根野道場跡 近藤長次郎邸跡の碑 河田小龍塾跡 武市瑞山殉節之地碑 坂本家墓所 土佐山内家宝物資料館(山内神社) 山内容堂像