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水戸―藩主不在が当たり前の城下町

水戸の象徴・水戸黄門こと徳川光圀(銅像)

水戸城
別名・通称 水府城
城郭構造 平山城
築城主 馬場資幹
築城年 建保2年(1214)ころ
主要城主 馬場氏、江戸氏、佐竹義宣、徳川頼房、徳川光圀、徳川斉昭
廃城年 明治4年(1871)
遺構 薬医門、藩校「弘道館」、土塁、空堀
所在地 茨城県水戸市三の丸
問い合わせ先 Tel:029-226-2354 水戸市観光課
アクセス JR常磐線・水戸駅から徒歩約8分
*ないない尽くしの城下町に潜む“副将軍のお膝元”としてのプライド*
 誰もが城下町と聞いて思い浮かべるのは、町の中心にある城址公園だろうか。端正な石垣が築かれ、仮に復興されたものであれそこに天守が建ち、春には花の名所として多くの行楽客で賑わう。また藩主や上級武家に贔屓にされ、藩政時代からの歴史を重ねる上菓子があり、そんな銘菓でお茶を喫するのも城下町歩きの楽しみ、という方も大勢いらっしゃることだろう。
 ところが水戸は、300近い藩の中で最上位の家格を誇る徳川御三家の一家が藩庁を置いた町でありながら、およそ城下町をイメージさせるものがない。たいていの近世城下町の町割りでは都市防衛のために設けられた寺町もなければ、武家屋敷が残っているわけでもない。いや、そればかりか水戸は、藩主が住んでなかった城下町なのだ。
 そもそも水戸の発展は鎌倉時代の初期に馬場氏によって館が築かれたことに始まる。室町時代には江戸氏に受け継がれたが、やがて戦国の世となると常陸太田を本拠とする佐竹義宣が江戸氏を滅ぼし、時の為政者・豊臣秀吉に常陸国一国を安堵されて水戸に入る。そして佐竹氏は城郭の拡張と城下町の整備を進めるが、関ヶ原の合戦に際し東軍・西軍のいずれにも与せず態度を曖昧にしたため、徳川家康の不興を買い佐竹氏は出羽国久保田(現・秋田県)に移封された。以降水戸城主は、家康の五男で甲斐武田家の名跡を継いだ信吉、十男・頼宣(後の紀州藩祖)と家康の実子が務め、さらに慶長14年(1609)に同十一男の頼房が入城、水戸藩祖となったのだった。この時、城郭のある高台の西に広がる古くからの武家屋敷地を上市とし、それに加えて東側の低地を新たに開発して下市と名付け、水戸の旧市街地に相当する城下の拡張・整備が行われた。
 さて、今日では水戸徳川家を尾張、紀州の両徳川家と合わせて御三家と称することは習わしとなっているが、元々御三家とは役職でも制度でもなく、また水戸と他の二家との間にはいくつかの違いがあった。その1つはそれぞれの家に許された極位極官である。尾張、紀州は従二位・大納言であるのに対し、水戸は正三位・権中納言と明確な序列が付けられていた。そして将軍家に後嗣がないときに養子を出すという役割が水戸にはなかった。しかし、参勤交代が制定された以降も、定府といって藩主が江戸に常駐し将軍を補佐するという役割が水戸には与えられていた。このため、水戸には藩主が住んでなかったのである。家格では尾張、紀州より下位に置かれながら将軍補佐という役目を担ったことから、役職でも制度でもない「藩主は『将軍のご意見番』『副将軍』である」というイメージが膨らみ、それが水戸藩のアイデンティティ形成に大きく影響していることは想像に難くない。
 近世の水戸を振り返るときに必ずその名が挙げられる第2代藩主・徳川光圀と第9代藩主・斉昭は、ともに学問を尊び藩士の教育を重視して、水戸藩を文教面での先進地とならしめた。そうした水戸で研鑽を重ねられた学問は、幕末の日本を動かす大きなムーブメントの導火線となる。自らのアイデンティティの発露を求めた水戸藩士の行動は、確かに幾多の悲劇や犠牲を生んだことも否めないが、それが時代を急進的に推進したことはその後の歴史が語っている。
 市の80%以上が被害を受けたという昭和20年(1945)8月2日の空襲により、水戸城御三階櫓などの遺構が焼失した。水戸は藩政時代の面影の多くをなくしているが、「“副将軍のお膝元”としてのプライド」とも換言できよう水戸のアイデンティティは、この町の中に決して出しゃばることなく、ひっそりと伝えられている。

※現在の水戸市は、人口約27万人。茨城県中央部に位置する県都で、県政はもちろん、文教、経済の中心地として栄える。市への主要交通は、JR常磐線、JR水郡線、鹿島臨海鉄道の水戸駅、常磐自動車道水戸IC、北関東自動車道水戸南IC。国道6号、50号、51号等。

右側中ほどの高台がかつての城郭。当時の千波湖は東南方向に大きく広がっていたが、今日では埋め立てが進み、その南側にも市街地が広がっている。




Ⅰ 城郭の見どころ


Ⅱ 町の見どころ①


Ⅱ 町の見どころ②


Ⅲ 町角情報

② 桂岸寺・保和苑 常盤共有墓地 回天神社・回天館