「城下町探訪」 水戸―藩主不在が当たり前の城下町
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銅像で巡る近世水戸偉人伝 常磐神社
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銅像で巡る近世水戸偉人伝
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●水戸黄門さまご一行
黄門とは中納言の唐名で、水戸徳川家の中納言経験者は初代の頼房をはじめ7名いた。しかし、今日では水戸黄門といえば、だれもが第二代藩主・光圀を思い浮かべるに違いない。それは、江戸時代末期の講談「水戸黄門漫遊記」に端を発し、近代以降は映画、そして現代でもTVドラマやアニメ・ゲームとメディアの垣根を越え「天下の副将軍・水戸光圀公」が世直しの旅を続け活躍中であるからなのは言うまでもない。
なお実在の光圀は、『大日本史』編纂にあたり多くの儒学者を史料収集のために全国に遣わしているが、自身が諸国を漫遊した史実は残っていない。ちなみに助さんのモデルは、全国を行脚した儒学者の1人・佐々十竹(介三郎宗淳)、格さんのモデルは同じく水戸史学の確立に寄与した安積澹泊(覚兵衛)と伝えられる。 |
水戸駅を北口に出るとおなじみのご一行が迎えてくれる。向かって左から助さん、黄門さま、格さん。(MAP①)
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光圀が愛した日本庭園・保和苑のある桂岸寺の前には石像が建つ。こちらは向かって右から助さん、黄門さま、格さん。(MAP②)
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●水戸光圀
寛永5年(1628)~元禄13年(1700)。修史事業として『大日本史』の編纂を始め、尊皇を旨とする水戸の学問や以降の思想に大きな影響を残した。「光圀公」、「黄門さま」、あるいは諡の「義公」と呼ばれ、水戸のシンボルとして親しまれている。
生誕地近くに建つ像だが、やはり隠居後のお姿。(MAP③)
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市内繁華街の「おしゃべりパーク」に建つ像は、隠居後を過ごした西山荘のある常陸太田市の方を向いている。(MAP④)
千波湖畔から水戸城の方角を望む光圀像は、昭和59年(1984)に市民の浄財によって建てられたもの。(MAP⑤)
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●安積澹泊
明暦2年(1656)~ 元文2年(1737)。水戸藩士の子弟として生まれ、江戸で朱舜水から儒学を学ぶ。光圀が修史事業のために設立した彰考館の総裁を務めた。
像の建つ二の丸・現在の市立第二中学校は、水戸彰考館があったところ。(MAP⑥)
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●徳川頼房
慶長8年(1603)~寛文元年(1661)。徳川家康の十一男で、初代水戸藩主。甥に当たる三代将軍・家光は1歳年下。2人は特に親密で寛永10年(1633)には、家光から「頼房のことを兄弟の如く思う。近くにいて自分の補佐をして欲しい」という内容の書状が頼房に出されており、水戸藩主が江戸に常駐し将軍を補佐することになった1つの理由とされている。
頼房が徳川姓を許されたのは立藩から27年、寛永13年(1636)のことであった。(MAP⑦)
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●徳川斉昭
寛政12年(1800)~万延元年(1860)。第九代藩主、諡は烈公。幼い頃より会沢正志斎らに師事し水戸伝統の学問を修め、思想を学ぶ。襲封後は、広く下士層から人材を登用し藩政改革断行。また、家督を嫡男・慶篤に譲った後も参与として幕政に関与したが、強硬に攘夷論を主張し、開国を推進する大老・井伊直弼と反目。加えて将軍継嗣問題でも井伊と対立した斉昭は、井伊の独断専行に敗れ、ついには水戸に永蟄居を命じられることとなった。
(上)水戸の宝と呼ぶにふさわしい弘道館、偕楽園を残した名君として斉昭は水戸市民に尊崇されている。(MAP⑧)
(右)安積澹泊をはじめ光圀の修史事業を支えた学者らに思想的影響を及ぼした。(MAP⑨)
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●朱舜水
1600年~1682年。明の儒学者で、清朝成立後日本へ亡命。当初長崎にいたところ光圀に招聘されて江戸へ。光圀就藩の折は水戸に同行し、当地の学問隆昌に大いに寄与した。
安積澹泊をはじめ光圀の修史事業を支えた学者らに思想的影響を及ぼした。(MAP⑨)
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銀行などのビルが林立する中に建つ徳川慶喜像。(MAP⑩)
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●徳川慶喜
天保8年(1837)~大正2年(1913)。幕末維新の動乱期を生きた徳川幕府最後の将軍。徳川斉昭の七男として江戸の水戸藩邸で生まれる。生後わずかで水戸に移って幼少期を過ごし、弘道館に学ぶ。幕命により御三卿・一橋家を相続し、さらに第十五代将軍に就任、大政奉還を行う。戊辰戦争では朝敵とされ、江戸無血開城後は水戸・弘道館にて謹慎。戊辰戦争終結により謹慎を解かれた慶喜は一時期は貴族院議員も務めるが、余生の大半を静岡と東京で趣味に耽る生活を送った。
千波湖畔には、父・斉昭の話に聞き入る七郎麻呂(慶喜の幼名)の像が建つ。(MAP⑪)
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●会沢正志斎
天明2年(1782)~文久3年(1863)。水戸藩士、儒学者、そして思想家。水戸彰考館の総裁、弘道館の初代教授頭取を務め、一方では斉昭の藩政改革を補佐した。『新論』は尊皇攘夷論を水戸の学問に体系化した著作で、尊皇攘夷派志士たちのバイブルともなった。
老熟した学者のイメージの正志斎だが、この像は若い時代のいかにも聡明な風貌を表す。(MAP⑫)
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●藤田東湖
文化3年(1806)~安政2年(1855)。水戸の学問の大家で彰考館総裁も務めた藤田幽谷の二男として水戸城下に生まれる。父の学派を継ぐ偉大な学者・思想家であり、西郷隆盛をはじめ、維新の志士たちに及ぼした影響は計り知れない。また、その卓抜な知見から斉昭の絶大な信頼を受け、腹心として終生斉昭の側に仕えた。
像が建つのは生家跡。当時はここから東に千波湖が見えたので東湖と号したという。(MAP⑬)
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常磐神社 |
千波湖畔から偕楽園公園に向かう高台に鎮まる。
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光圀、斉昭の遺徳を偲び両公を御祭神として、明治6年(1873)年に創建された神社。境内にある博物館「義烈館」には、光圀が編纂を始めその後250年ほどにも及び歴代藩主に受け継がれて完成した『大日本史』の草稿や、天保年間に攘夷のために幕府に献上した斉昭自身の設計による大砲『太極』をはじめ、両公ゆかりの品々や水戸の歴史と水戸学と称された水戸で研鑽された学問の史料が多数展示される。
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●三木神社
後の名君となる光圀を自邸で密かに産ませた水戸藩家老・三木之次の功績を後世に伝える。昭和40年(1965)、常磐神社の末社として創祀。三木家の末裔・啓次郎氏は、まだ事業が軌道に乗らず困苦の時代にあった松下幸之助を援助しており、それが縁で松下電器産業(現・パナソニック)が提供する「ナショナル劇場(現・パナソニックドラマシアター、TBS系列放映)」に『水戸黄門』が選ばれたとも言われている。
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●東湖神社
斉昭の側近として藩政改革に尽くし、また水戸の学問を代表する学者・教育者であり、尊皇志士に大きな影響を与えた思想家でもある藤田東湖を祀り、昭和18年(1943)、常磐神社の境内に創建。
●農人形
万民の暮らしの礎となる農業を常に尊び奨励していた斉昭は、農民の辛苦を思いやり、その営みに感謝するために、お膳にのる農民の人形を作りご飯を一箸供えてから食事をとった。その人形が農人形で、子女にもそれに習わせ、さらに後には水戸の伝統工芸品として製造され、一般の家庭にも置かれるようになったという。大鳥居へと登る石段の脇に、この巨大な農人形は座している。
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マップ&水戸城データ Ⅰ 城郭の見どころ Ⅱ 町の見どころ② Ⅲ 町角情報