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佐倉―チューリップが咲きオランダ風車が回る城下町

写真協力:佐倉市

佐倉城
別名 鹿島城
城郭構造 平山城
築城主 土井利勝
築城年 慶長15年(1610)
主要城主 土井氏、堀田氏
廃城年 明治6年(1873)
現在の天守 非現存。築城当時は三重四階、文化10年(1813)焼失。
所在地 千葉県佐倉市城内町官有無番地
問い合わせ先 Tel 043-484-6165 佐倉市公園緑地課
アクセス JR佐倉駅から徒歩約25分、京成佐倉駅から徒歩約20分、
ともにバスもあり。
*幕末の幕政をリードした“蘭癖大名”*
 千葉県の北総台地のほぼ中央に位置する佐倉は、徳川家康の江戸開幕に際し、江戸の東を守る要衝として重要視された。そのため、戦国時代末期に後北条氏配下の千葉氏が本拠としていた本佐倉城(現在の佐倉市と酒々井町にまたがる地区)に、家康の五男・武田信吉、六男・松平忠輝、四男・松平忠吉の付家老を務めた小笠原吉次が順次入封、さらに慶長15年(1610)には土井利勝が入り、翌年から現在城址公園となっている鹿島台に新たに佐倉城が建設された。そして本佐倉城は廃城して、佐倉藩の藩庁となり、城下町・佐倉が築かれたのだった。なお利勝以降、上記の地理的特性もあり佐倉城城主は譜代の有力大名が代々務めた。それは家光時代に老中、大老を任じられた利勝を筆頭に、明治維新までの間に20名の城主が存在したが、そのうち8名が老中以上の要職に付いたほどだった。幕府においていかに佐倉藩が重要であったかが伺える。
 では、この佐倉のシンボルといえば何だと考えられるだろうか。小高い丘の上にそびえる三重四階の天守閣、と言いたいところなのだが、残念ながら天守閣は文化10年(1813)に焼失してから再建されることはなかった。また、近年も天守復興の話は起きるものの、多額の費用を要することでもあり実現に至ってはいない。町のシンボルとして、印旛沼の畔“佐倉ふるさと広場”のチューリップの花畑と巨大なオランダ風車を挙げたら、些か見当違いに思われるだろうか。ところが……なのである。
 18世紀前半まで佐倉城主は移封が相次いでいたが、延享3年(1746)に出羽国山形藩から堀田正亮(第5代将軍・綱吉時代に大老にもなった堀田正俊の孫)が入封して以来、正俊系堀田家が幕末まで城主を務めた。そして、その堀田家によって蘭学という佐倉の伝統が培われたのであった。中でもその名が知られているのは、老中首座であり、ハリスとの日米修好通商条約締結を担当した外交の総責任者であった堀田正睦。その傾注ぶりは“蘭癖大名”と揶揄されるほどで、蘭学を取り入れ藩校を整備拡充し、藩政、幕政を担う開明的な人材の育成を図った。また正睦が招請した高名な江戸の蘭方医・佐藤泰然によって医院兼蘭学塾として順天堂が創設され、「西の長崎」に並び称される「東の佐倉」は蘭学、蘭方医学の先進地となったのだった。この佐倉から輩出された人材は、維新後に日本が押し進めた近代化にも寄与したことは想像に難くない。
 城址公園や武家屋敷地など藩政時代を偲ばせる遺構とともに、1600年に漂着したオランダの商船と同じ友愛を意味する“リーフデ”の名が冠された風車は、佐倉の大切な誇りの一つであるのだ。

※現在の佐倉市は人口約18万人。都心から約40kmという場所柄、近年は東京のベッドタウンとして成長してきた。市への主要交通は、JR総武本線(佐倉駅)、京成本線(京成佐倉駅等)、東関東自動車道(佐倉IC)、国道51号・296号等。






佐倉ふるさと広場のオランダ風車“リーフデ”
写真協力:佐倉市


佐倉城府内之図。江戸時代前半の佐倉城下の町割を示す。


Ⅰ 城郭の見どころ


Ⅱ 町の見どころ


Ⅲ 町角情報