駿府城中堀と復元された東御門
駿府城 | |
別名・通称 | 府中城 |
城郭構造 | 平城 |
築城主 | 徳川家康 |
築城年 | 天正13年(1585)、慶長12年(1607) |
主要城主 | 徳川氏 |
廃城年 | 明治22年(1889) |
遺構 | 本丸、二の丸、三の丸の石垣と堀の一部 |
所在地 | 静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1 |
問い合わせ先 | Tel:054-251-0016 駿府城公園二の丸施設管理事務所 |
アクセス | JR東海道新幹線、東海道本線静岡駅から徒歩10分 |
*街のグランドデザインは徳川家康*
およそ400年の昔、京から江戸を目指した旅人を思い浮かべていただきたい。安倍川を渡り駿河国府中(=駿府)の城下に入った彼らは、その雄大さにはっと息を呑んだのではないだろうか。整然とした町並みが続く先には、富士山を背景として五重七階の天守閣がそびえていた。この城の実質的な主は大御所様こと徳川家康。将軍職を辞した家康によって築かれた近世城下町としての駿府は当時、海道一の宿、いや京、大坂に次ぎ江戸と比肩するほどの人口と賑わいを誇った日本屈指の大都市であったのだ。
家康といえば、三河国(現・愛知県)出身の戦国大名として、織田信長、豊臣秀吉に続き乱世の覇者となり、ついには江戸に幕府を開いたことは誰もが知るところであろう。よって、家康ゆかりの地として出身地の愛知県岡崎市と江戸(東京)が先ず想起されるのは然りである。ところが、その縁の深さということでは勝るとも劣らないのが静岡市なのである。実は家康は都合三度通算で、75年(数え年)という当時としては非常に長い生涯の1/3をこの地で過ごしているのだ。
その最初は天文18年(1549)のこと。松平竹千代と呼ばれた8歳の家康は、守護大名から戦国大名への転身を遂げ、駿河・遠江に加え三河にも勢力を及ぼし始めた今川義元の下に人質として送られたのであった。もっとも人質といっても、竹千代が駿府で辛く惨めな暮らしを強要されたわけでない。どちらかといえば、今川家麾下の武将となるための英才教育を受けたと考える方が適切かもしれない。今川家の菩提寺である臨済寺の住持でありながら武将としても活躍し、執政かつ軍師として義元を補佐した太原雪斎から、幼い竹千代は学問を修したという。また元服したのも駿府で、家康は義元から偏諱を受け“次郎三郎元信”と名乗り、さらに義元の姪・瀬名姫(のちの築山殿)を妻に迎えているのだ。
当時の今川家といえば、足利将軍家の血筋にある名家で公家との交流も深く、伝統・先進いずれの面においても文化的水準が、三河の国人領主(=松平家)とは比べものにならなかったのは言うまでもない。少年時代から青年期をそんな今川家で過ごしたことが、のちの家康に及ぼした影響は計り知れないといえよう。
そうして今川家で立派な武士に成長した家康に転機が訪れたのは、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いであった。今川方の武将として尾張に侵攻した家康は、総大将の義元が信長の奇襲で討たれると、駿府には戻ることなく、生まれ故郷の岡崎城に入ったのだった。
三河に帰った家康は、織田信長と同盟を結び戦国大名として台頭。信長が本能寺の変に倒れた天正10年(1582)には、それまで今川・武田両家の所領であった三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5か国を支配下に治め、天正14年には岡崎の次に本拠としていた浜松から駿府に移っている。これが2度目の駿府入りで、このとき家康は、旧今川館のあったところに城郭を築き(天正の駿府城)、今川・武田との戦乱で荒廃した城下を整備した。
ところが天正18年、小田原の役で北条氏を滅ぼし天下統一を成した豊臣秀吉により、家康は関東に移封、江戸に居城を構えることとなる。その家康が3度目の駿府入りを果たすのは、江戸に幕府を開き、さらに将軍職を嫡男・秀忠に譲ってから2年後、慶長12年(1607)のことであった。
振り返ってみれば、人質時代を脱してから三河の岡崎を皮切りに東進するに従い強大な権力を持つようになり遂には武家の棟梁(征夷大将軍)にまで上り詰めた家康。それがどうしてまた駿府へと戻ったのか。気候が穏やかな地で余生を送ろう、などと考えたわけではもちろんない。それは為政者としての理想を実現するためであった。
その持てる武力によって乱世を生き抜いてきたのではあるが、いや、であればこそ、最早世は武力がものをいう時代から、学識・学徳と経済的な裏付けといった合理的な秩序による統治が求められる時代に移行しつつあることを知悉していた家康が、自らに課した最後の大仕事は、太平の世の秩序を構築することだったと考えられる。そして、そのために避けては通れなかったのが大坂にあってなおも秀吉時代の威光をかざす“豊臣氏との決着”であった。慶長20年(1615)、大坂夏の陣により豊臣氏を滅ぼした家康は、元号を元和に改め、この戦を以て応仁の乱以降続いた戦乱の世の終結(元和偃武という)を喧伝し、同年に「元和一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」といった幕藩体制の根幹となる法令を制定していることは、それを如実に物語る。
もしも豊臣勢が東進してくることになった場合の防衛拠点という軍事上の意味と、幕府の体制にとらわれず幅広く有能な人材を登用し、文治・文政の礎となる諸制度構築のために選んだのが駿府の地であったのだ。
家康は駿府入府に際し、幾筋にもなって流れ込んでいた安倍川の流路を付け替え、広く平らな市街地を形成するとともに、城下の西側を守る天然の堀とした。そして、かつて自らが築いた天正の駿府城を拡張し(慶長の駿府城)、城下を大御所が政務を執るに相応しい都市に整備したのだった。
今日の静岡の市街地には、当時のままの史跡が残るわけではないが、駿府城址をはじめ家康ゆかりの古刹・古社が点在するばかりか、城下町時代を彷彿させる場所を巡ることもできる。三の丸跡には学校や官公庁・公共施設が並び、かつての駿府奉行所跡には現・静岡市役所が建ち、呉服町のブティックや百貨店には最新ファッションを求める市民が集まる。映画、カラオケ、飲食などで賑わう七間町界隈、そして日銀静岡支店がある金座町周辺は各地銀の本支店も軒を連ねる金融街となっている。目に映る景色は変わっても、静岡の街にはおよそ400年前に徳川家康が描いた都市デザインが継承されているのである。
※現在の静岡市は、人口71万人以上を擁する政令指定都市で、駿河湾から南アルプスに至る広大な市域を有する(現在、日本で5番目に広い市)。静岡中央部に位置する県都で、県政はもちろん、文教、経済の中心地として栄える。市への主要交通は、JR東海道新幹線、JR東海道本線、東名高速道路、新東名高速道路等。 |