「城下町探訪」 静岡―戦乱の世を完全終結するために築かれた城下町
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●巽櫓
平成元年(1989)、約6億円の費用と6年の歳月をかけ復元された二重三階の隅櫓。写真奥に並んで見える東御門ともに、日本国内の城郭建築としては前例のないほどの事前調査、指図(古図面)の研究に基づいて寛永時代の姿を再現している。
●東御門
写真中央の東御門橋を渡ったところに高麗門、左側は多聞櫓、右側には櫓門が構えられ、往時に典型的な枡形を形成している。なお、この御門は平成8年(1996)に約20億円、6年を費やして復元された。
●徳川家康像
(右)、駿府城公園の中心にあるこの像の周辺が本丸・天守閣跡であったと考えられている。像の付近には、“家康手植え”と伝えられるミカンの木が残る。
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駿府城跡
家康が築いた慶長の駿府城は、三重の堀を巡らし本丸、二の丸、三の丸が周囲を囲うように構成された輪郭式の城であった。天守は寛永12年(1635)に焼失してから再建されることはなかったが、長大な堀の石垣は江戸時代に発生した宝永や安政の大地震で崩壊してもその都度修復がなされ、現在も中堀と外堀の3/4が残る。本丸跡、二の丸跡は駿府城公園として開放されており、二の丸東南角の巽櫓と東御門、内堀の一部が復元されている。
家康の生前から城主は十男の頼宣が務めていたが、頼宣が紀州に移封されてからはしばらく城主不在となった。のちに入府した2代将軍・秀忠の二男である忠長が改易されてからは、駿府は天領となり城代、定番が置かれた。この駿府城に城主が戻ったのは、大政奉還後の慶応4年(1868)、最後の将軍・慶喜から徳川宗家の家督を相続した徳川家達であった。
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●外堀
城郭北側の水堀と屏風折をなす石垣。この城の堅固さを偲ばせる。
●石垣の刻印
(右)天下普請によって建築工事が進められた駿府城。その石垣や石垣の石を転用した歩道の縁石などには、担当した大名家を示す刻印が残る。
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●二の丸水路水門
二の丸水路とは、中堀(二の丸堀)から内堀(本丸堀)を結ぶ水路で、内堀の水位を保つ目的で設けられている。写真は中堀側からの水門。
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●内堀跡
駿府公園内に、明治29年(1896)に埋められてしまったかつての内堀の一部が復元されている。
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