サイト内検索
伊賀上野―築城の名手・藤堂高虎の城をいただく“忍の里”
 
伊賀上野城
別名・通称 白鳳城、伊賀文化産業城(現在の正式名称)
城郭構造 平山城
築城主 筒井定次
築城年 天正13年(1585)
主要改修者 藤堂高虎
主要城主 藤堂氏
廃城年 明治4年(1871)
現在の天守 層塔型、3層3階木造。昭和10年(1935)に復興
所在地 三重県伊賀市上野丸之内106
問い合わせ先 Tel 0595-21-3148
アクセス 伊賀鉄道伊賀線・上野市駅から徒歩約10分
*近世初頭の町割りが残る町*
  今日の伊賀上野の町の原型が造られたのは、慶長13年(1608)、藤堂高虎の入封を契機とする。関ヶ原の戦いに勝利したとはいえ、依然として大坂に構える豊臣秀頼をはじめ、西国大名は徳川方にとって目の離せない存在であった。そこで徳川家康は、それまで伊賀国を治めていた筒井定次を改易し、伊賀・伊勢の領主を藤堂高虎に任じた。現在の地図を見ても明らかなように、奈良、京都、滋賀との県境に位置し、大阪と伊勢湾を結ぶ最短距離上にもあたる三重県北西部の伊賀は、関西地方への備えとして最重要の地となる。また、かつてわずかな手勢だけを伴って堺見物に出ていた際に本能寺の変が起こり、この伊賀を抜けて三河へ逃げ帰った(神君伊賀越え)家康からすれば、特別な実感もあったのではないだろうか。西国大名を監視し、そしていざ豊臣方と事を構えるときにはこの地を戦闘拠点とするために家康は、外様大名とはいえ厚い信頼を寄せる高虎に伊賀を治めさせたのであった。
 伊賀に入った高虎は家康の意に従い、自ら縄張りを指示して筒井氏時代の城郭の大改修に着手。本丸を広げ、その周りに高石垣を構築、天守台には五層の層塔型天守閣を造りあげた。ところが、天守閣は完成間近の慶長17年(1612)9月、この地方を襲った暴風雨により倒壊。その後、豊臣家の滅亡で城普請は中止され天守閣は再建されることがなかったが、城郭は幕末まで伊賀国の城として存続した。なお、高虎は津を本城としたため、伊賀上野には城代家老が置かれた。
 また高虎は、大火で焼失していた筒井氏時代の城下町とは反対側になる城郭の南側に、東西に走る本町、二之町、三之町、南北の東之立町、中之立町、西之立町の通りを巡らせ、新たな城下町の町割りを行った。この地域は現代の伊賀上野の中心市街地となっているが、東之立町通り(現在は銀座通りと呼ばれている)が拡幅された以外、他の街路はほぼ往時のままに通っている。

※広く伊賀上野の名で親しまれてきた三重県上野市は、平成16年(2004)の6市町村の合併により伊賀市となっている。人口10万人弱、経済的には大阪の影響が強く、名阪国道による物流利便性のため沿線への工場立地も増加している。市への主要交通は、JR関西本線(伊賀上野駅)、近鉄大阪線(伊賀神戸駅)、国道25号(名阪国道)。



藤堂高虎(イラスト=藤生ゴオ)



享保年間の城下町絵図(写真提供:財団法人伊賀文化産業協会専務理事・福井健二氏)


Ⅰ 城郭の見どころ


Ⅱ 町の見どころ


Ⅲ 町角情報


Ⅳ Another

伊賀上野城 1 玄蕃町 2 玄蕃町 3 赤坂町 4 農人町 5 車坂町 6 寺町通り 7 相生町 8 鍛冶町 9 中町の本町通り 10 西町 11 徳居町 12 忍町 13 愛宕町 14 鉄砲町 伊賀流忍者博物館 むらい萬香園 かぎや餅店 芭蕉翁生家 芭蕉翁記念館 俳聖殿 上野天神宮 蓑虫庵 故郷塚