「城下町探訪」 伊賀上野―築城の名手・藤堂高虎の城をいただく“忍の里”
建築博物館のような町 伊賀流忍者の里
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②玄蕃には珍しい侍長屋屋敷門も残る。 |
③赤坂町の濱邊邸。復活させた約160年前の店行灯が建物の趣にマッチ。 |
④(上)農人町の旧伊賀街道と旧大和街道の追分けに建つ井本薬局。 |
⑥七寺院(上行寺、妙典寺、妙昌寺、善福寺、萬福寺、大超寺、念佛寺)が並ぶ寺町通り。真っ直ぐに続く白壁が美しい。 |
⑦相生町の入交家住宅。寛政(1789~1800年)の頃に、入交勘平が拝領した武家屋敷が保存修復工事を施され、公開されている。長屋門、正面に設えられた式台玄関(上役が訪問時に使用した)など、武家屋敷の特徴が見られる。 |
⑩西町の筒居邸。虫籠窓、出格子、駒寄など歴史を感じさせる設えがよく保たれている。 |
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⑧(左)鍛冶町の田中邸。広い開口部を確保するための改修で、町の趣と調和するように縦格子の引き戸にする工夫が見られる。 |
⑪徳居町の上田邸。重厚な土塀、中央の腕木門が往時の武家屋敷を彷彿とさせる。 |
⑬(上)愛宕町の服部邸。出格子の窓、白漆喰で塗り込められた虫籠窓。町並みの風情を考慮した、こうした伝統的な町屋の造りを保つ修復がなされた家屋に、居住者のこの町に対する愛着と誇りが感じられる。 |
大和国と接する伊賀国は、古代より東大寺を中心とする南都の有力寺院の荘園が多く、中世に入ってからも、有力な守護や地頭に支配されることがなく、また他地域のように強大な武家が勢力を伸長することもなかった。このため、多数の土豪や地侍の群雄割拠状態にあった。その頃彼らは、敵から自らを守るため独自の諜報術やゲリラ的な武闘術を編み出し、それが伊賀流忍術、忍者の始まりと考えられる。そして伊賀国には千賀地(旧姓・服部)宗家、百地家、藤林家の上忍三家を中心とした、伊賀惣国一揆と呼ばれる自治共同体が形成されていった。ところが戦国時代になると、そんな伊賀惣国一揆も時代の波に洗われていく。元々耕作地が狭いうえに忍家の組織の肥大化により財政的に逼迫したことで、宗家の保長が室町幕府十二代将軍・足利義晴に出仕し伊賀を離れた(なお、この保長が初代服部半蔵で、後に徳川家康の祖父・松平清康に仕え、その家督を継いだ次男・正成が家康の神君伊賀越えで功をなし、徳川家の隠密頭まで務めた二代目服部半蔵である)。そして伊賀惣国一揆を壊滅に追いやったのが、織田信長による二度にわたる伊賀攻め(天正伊賀の乱)であった。 |
(上)忍者屋敷内には外敵の侵入から身を守るための様々なカラクリが仕掛けられており、それをくノ一(女忍者)に扮した説明員が実演して見せてくれる。(写真提供:社団法人
伊賀上野観光協会) |
忍術体験館、忍者伝承館には、忍者が使った忍具や、忍者の生活をリアルに再現したジオラマ、忍術の古文書が展示されている。(写真提供:社団法人 伊賀上野観光協会) |