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「城下町探訪」 水戸―藩主不在が当たり前の城下町

Ⅰ 城郭の見どころ

東日本大震災の被害が出ている場所があります。
公開状況をご確認の上、ご訪問ください。

水戸城跡  弘道館

※「Information」マークのついてる写真はクリックすると、詳細情報がご覧になれます。

水戸城跡

北に流れる那珂川と南に広がる千波湖を天然の要害とし、そこに挟まれた高台に空堀を掘削して東から本丸、二の丸、三の丸と並んだ連郭式の縄張りの跡が顕著に残る。水戸藩立藩当初の石垣はなく土塁と空堀だけで城郭が構築されており、また天守は設けなかった。同じ御三家の尾張・名古屋城、紀州・和歌山城に比べ小規模で質素だが、水戸城は当時仮想敵とされた豊臣方に対する防衛拠点としての他二城と比べて重要性が低かったことに加え、藩主が江戸に常駐していたことも、その理由として考えられる。
天守に代わるものとして御三階櫓が二の丸に立てられていたが、太平洋戦争の空襲で焼失。現在の城跡は、本丸跡に茨城県立水戸第一高等学校、二の丸跡には同水戸第三高等学校、水戸市立第二中学校、茨城大学付属小学校が建ち水戸の文教区となっており、三の丸跡には往時のままに弘道館が残る。



●空堀
二の丸と三の丸と判明した空堀。現在は県道が通る堀のそこからの眺めは威風を醸す。上に架かるのが大手橋。なお、本丸と二の丸の間の堀は、現在、水郡線の鉄路となっている。

 

●御三階櫓
一階部分のなまこ壁が、いかにも石垣を擬したように見える。戦前には国宝に指定されていた。(写真提供:水戸市立博物館)

●薬医門
旧本丸で現茨城県立水戸第一高等学校の入り口に建つ水戸城唯一の遺構。

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弘道館 (閉鎖中)

正門は格調と威厳を感じされられる。
(写真協力:『桜田門外ノ変』映画化支援の会)
 
 

正庁の奥には至善堂につながっている。ともに天保12年の建築。至善堂は、斉昭の第七子で一橋家を経て15代将軍となった徳川慶喜が幼い頃に学んだところであり、大政奉還後に謹慎生活を送ったところでもある。(写真協力:『桜田門外ノ変』映画化支援の会)

 

天保12年(1841)、第9代藩主・徳川斉昭が藩士の子弟教育のために創設した藩校。他藩の一般的な藩校でも重視されていた儒学と武芸以外に、数学、天文学、医学などの自然科学分野、音楽や和歌などの芸術分野まで多様な科目が教えられ、現代でいう総合大学のような先進的教育機関であった。そのため、青雲の志をもった他藩の俊英も競って遊学、彼らの幕末変革期の活動の理論的、あるいは思想的背景を育んだ。
 明治維新期の戊辰の役、さらに戦災で多くの建物を失ったが、現在も正門、正庁、至善堂が残る。水戸空襲の折に、近隣住民は自宅が燃えるのも顧みず弘道館の消火にあたったと伝えられる。水戸人の誇りが込められた史跡である。
 

八卦堂。弘道館で教鞭を執った幕末を代表する儒学者・藤田東湖の草案作成と斉昭の撰文・書による、弘道館建学の精神と教育方針を示した弘道館記碑(非公開)がこの中に納められている。建物は昭和28年(1953)の復元。また、弘道館記碑は、関東大震災、太平洋戦争の空襲も乗り越えたが 東日本大震災で一部崩落した。(写真協力:『桜田門外ノ変』映画化支援の会)


マップ&水戸城データ    Ⅱ 町の見どころ①    Ⅱ 町の見どころ②    Ⅲ 町角情報