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TOKYO銅像マップ

目黒区・不動前~中目黒

松雲元慶

三沢初子

 目黒区は東京23区の中では南西部に位置し、武蔵野台地の一部を含む自然豊かな環境で、商業施設や住環境に恵まれた地域としても知られ、区内に所在する寺社の数は東京有数ともいわれています。戦国期には関東の雄、後北条氏の勢力圏に入り、江戸時代には農産品の産地として、中でもタケノコが名産だったといわれます。目黒川、立会川など5つの河川が流れる現在の姿に近い「目黒区」となったのは1932年のことです。目黒の名の由来ははっきりしておらず、その一方で落語の「目黒のサンマ」や、中目黒、祐天寺などが若者に人気のおしゃれな街として注目されるなど、ネームバリューのある区であるともいえそうです。今回は、そんな目黒区にある印象的な像を訪ねます。

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松雲元慶 (1648~1710)

建立:1986年2月
制作:佐山道知
 松雲元慶(しょううんげんけい)は、江戸前期の僧であり仏師です。慶安元年(1648)に京都で生まれ、22歳の時に日本三禅宗の一つといわれる黄檗宗の僧・鉄眼道光(てつげんどうこう)に師事しました。諸国修行の途中、豊前国(大分県)にあったときに五百羅漢像の造立を志し、江戸に下向。本所(江東区)にて鉄眼道光により開山、松雲元慶が開基となり、元禄8年(1695)に「天恩山五百羅漢寺」が開かれました。水難を度々受けたことから、明治時代には現在地に移転しました。
 五百羅漢像は、本所時代にすべて松雲元慶自らの手で彫られたもので、浅草にて、五代将軍・徳川綱吉生母・桂昌院の寄進を受けて10体の像を手掛けたことが始まりといわれます。当初は、現存する本尊の釈迦如来像を含み536体あったといわれ、江戸の名所にもなりましたが、その後に寺が見舞われた衰退期に散逸・損傷するなどしたため、現存は305体となっています。
 ちなみに五百羅漢とは仏の教えを学ぶ僧の姿を現したもので、木造・漆塗りの像はそれぞれがお釈迦様の教えを学ぶ姿を示しており、表情・姿勢も多彩で536体すべてを見られないのが残念なほどです。
 松雲元慶の像は寺の中ではなく、歩いて2分ほどの、山手通りに面したビルの角地にあります。高さ約2メートルの台座付き座像で、昭和56年(1981)に荒廃を惜しむ多くの人々の支援により寺が再建を果たしたことを記念して制作が決まり、5年後に建立されました。
 彫刻家・佐山道知(さやまみちとも)氏による「松雲羅漢」像は、右手にノミ、左手に木槌を持ち、彫像の途中で一呼吸入れた姿を描いており、足を組んでリラックスした姿が印象的です。木像の五百羅漢像とはまた印象が異なり、肉感的であり、今まさに彫っている――という姿ではないにもかかわらず、体躯の躍動を感じさせる近代彫刻ならではの造形が見どころといえるでしょう。

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三沢初子 (1640~1686)


建立:1934年
構想:北村西望・建畠大夢・新田藤太郎
制作:新田藤太郎
 三沢初子(みざわはつこ)は、江戸時代初期の女性です。仙台藩三代目藩主・伊達綱宗(伊達家としては19代当主)の側室となり、四代目の綱村の生母となりました。
 若くして両親と死別し叔母に養われた初子は、叔母が仙台藩江戸屋敷に奉公した縁で自らも屋敷に上がりました。初子を気に入った二代目藩主・忠宗は、嫡子・綱宗の側室(事実上の正室)とし、やがて初子は伊達家江戸屋敷で長子・亀千代を生みます。この亀千代こそ、伊達家をお家断絶の瀬戸際に追い込んだ「寛文事件」、俗に伊達騒動と呼ばれる事件の渦中の当主・伊達綱村です。
 騒動自体は、不行跡を理由に綱宗が幕府から隠居を命じられ、綱村がわずか2歳で当主となったことに起因する後見役の親族、重臣らの争いに領地を巡る確執などが絡んだ複雑な事件でした。本来なら当主が家臣の監督責任を問われ、お家断絶にもなりかねない状況でしたが、綱村が若年であったことが幸いして監督責任を問われませんでした。
 三沢初子は、自身が深く帰依していた実相山正覚寺の鬼子母神像に年若い我が子の無事を祈念し、また騒動の渦中では香木に釈迦の姿を刻んで髪中に納め、事件後は守り本尊として綱村に託したといわれます。そんな母の思いもあってか、綱村はのちに名君と呼ばれるまでに成長します。
 銅像は、中目黒にある実相山正覚寺の中にあります。約4メートルの台座付き立像で、昭和9年(1934)、初子の遺徳をしのび建立されました。彫刻家・北村西望、建畠大夢(たてはたたいむ)、新田藤太郎(にったとうたろう・「肉弾三勇士像」の原型製作者)の三氏が協力して構想を練り、新田藤太郎が主として制作を進めました。
 「三沢初子之像」と題された堂々たる像は、初子がモデルといわれる「政岡」が登場する歌舞伎の演目『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』で、政岡を演じた歌舞伎役者・四代目尾上梅朝(おのえばいちょう)の姿を基にしたもの。打掛を着た女性像ですが、凛として気高いイメージを感じさせるところは、腰元・娘役を得意とした名優がモデルであればこそなのかもしれません。
 なお、敷地内の鬼子母神堂には初子が祈念を寄せたという鬼子母神像が安置されており、墓地には三沢初子の墓(都指定文化財)があります。


太田道灌 橋本左内