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武蔵御嶽神社・
釜の淵公園・玉川上水

畠山重忠

板垣退助

佐藤敏雄

榎戸米吉

玉川兄弟

今回は青梅市とその周辺地域にある銅像を紹介しましょう。青梅市は、江戸時代に宿場町であった青梅宿(現在の青梅市街)を中心として発展した地域で、東京の多摩地区西部に位置します。昭和26年(1951)にそれまでの青梅町と2つの村が合併して市制に移行しました。古くは御岳山を始めとした山岳信仰の地であり、現在はハイキングやツーリングなどで賑わいを見せています。また、市内の住江町を中心に昭和レトロの街として観光にも力を入れており、JR青梅駅を降りると懐かしの映画看板を通じて地元と縁がある漫画家・赤塚不二夫が生んだキャラクター、バカボンのパパの像(残念ながら銅像ではありません)が逆立ち姿で出迎えてくれます(赤塚作品や昭和のアイテムを展示した赤塚不二夫会館もあります)。

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畠山重忠 (1164~1205)

建立:1981年12月
製作:北村西望
 畠山重忠(はたけやましげただ)は、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した武蔵国の武将です。源頼朝の挙兵時には敵対していましたが、のちに臣従し、以後は源氏の有力武将として数多くの合戦に参加。鎌倉幕府の成立に大きな功績を残した人物でした。しかし、頼朝没後は台頭する北条氏によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされるという悲運に見舞われました。
 怪力であったことから数多くの「力自慢」のエピソードがあり、甲冑を着た武者を放り投げた、といった豪快な面がある一方で、敵対した武将に対する礼節や情けに厚く、領国経営にも細かな心配りを見せるなど、知勇兼備の名将であったといわれています。
 銅像は、青梅市の武蔵御嶽神社にあり、甲冑姿の乗馬像です。北村西望の作で昭和56年(1981)に建立されました。表面は通常の銅像とは異なり金属的な光沢があり、寡兵でも死を恐れることなく勇猛であったという重忠の人となりを思わせる像です。武蔵御嶽神社には、重忠が奉納したと伝えられる赤糸威大鎧(日本三大大鎧の一つで文化財)や、黒漆太刀銘宝寿(国の重要文化財)が保存されているなど縁の深い場所で、像はこれらを収めた宝物殿前に置かれています。

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板垣退助 (1837~1919)

建立:1961年5月
製作:松野伍秀
 板垣退助は、明治時代の政治家・思想家です(詳細は「国会議事堂内の銅像・板垣退助」参照)。像は青梅市駒木町にある釜の淵公園内にあります。銅像が青梅にある理由は、像の台座にある銘文や史料によると、板垣退助は公私にわたってたびたび青梅を訪れており、多摩地区を地盤とする多くの政治家と交わっていました。そのうちの一人、岩浪光次郎氏を中心に偉業を後世に伝える目的で銅像製作の建議がなされ建立に至ったとのことです。
 製作は彫刻家の松野伍秀(まつのごしゅう)で、昭和36年(1961)に建立されました。おなじみのフロックコート姿の立像で、特徴的な顎ひげは他の銅像よりも誇張してあるイメージで非常に迫力を感じさせます。
 なお、釜の淵公園内には地元の偉人の像もあり、以下に2体を紹介します。


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釜の淵公園の銅像

佐藤敏雄 (1896~1978)

建立:1997年11月
製作:尾形喜代治
 現在の日本ケミコンの創立者で、1931年に日本で初めて電解蓄電器(電解コンデンサー)の製品化に成功した人物です。日本の電気・化学工業分野に大きな足跡を残したほか、地元青梅の青少年の育成や平和活動も手掛けました。
 銅像は尾形喜代治の原型製作により、平成9年に建立。片手をコートのポケットに入れた姿の台座付き立像です。




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榎戸米吉 (1916〜1990)

建立:1990年
製作:尾形喜代治
 青梅を地盤とする政治家・実業家で、第2代の青梅市長。昭和26年の市制移行や財政再建など一貫して地元の経済と発展に尽力したほか、近隣の在日米軍横田基地関係者との間で友好と相互理解に努めるなど、日本の戦後史にも足跡を残した人物です。
 銅像は尾形喜代治の原型製作により、平成2年に建立されました。スーツ姿を描いた台座付きの立像です。



玉川兄弟

建立:1958年9月5日
製作:松野伍秀
 玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は江戸時代初期の人物で、出自や生没年には不明な点が多いですが農民出身あるいは土木工事業者の束ね役(口入れ業)ともいわれています。兄弟が歴史の舞台に登場したのは、人口急増期を迎えた江戸の水不足(後には武蔵野の新田開発の水源不足)を解消するため、新たな上水道の建設が計画されたときでした。江戸幕府は承応元年(1652、諸説あり)に多摩川からの取水と水道建設を計画。老中・松平信綱を総奉行にして建設に着手します。その事業を請け負ったのが玉川兄弟でした。水路の設計は、松平信綱の家臣である安松金右衛門(異説あり)が担当し、日野、福生、羽村の3取水地案が提案されます。日野・福生は失敗に終わりましたが、最後の羽村案により着工翌年の承応2年に、羽村取水堰から水路の終点である四谷大木戸までの総距離約52キロの水路が完成しました。水路の一部は今も東京都水道局により使用されています。
 工事予算は約6千両(現在の金額で2億近い)ありましたが、当初の工事失敗や「水喰土(みずくらいど)」と呼ばれた関東ローム層対策(浸透性の高い赤土層に対し、木造や石積みの水路を構築するなど)により予想外に費用がかさみ、兄弟は家などの私財をなげうって工事を進めました。幕府は工事完成後、兄弟の功績に対して「玉川」の姓を名乗ることを許して士分相当とし、200石の扶持を与えるとともに上水を管理する「玉川上水役」に任じてその努力に報いました。
 銅像は、羽村取水堰近くの羽村公園内にあります。兄弟の遺徳を偲ぶ声が地元・羽村を中心に高まったことを受け、昭和33年(1958)に、羽村水源愛護会により建立されました。「玉川兄弟の像」と名付けられたこの像は、工事に臨んだ姿を描いています。左手に測量用の測縄を持っている立像が兄の庄右衛門、右手に木(竹)製の尺杖らしきものを持つ片膝の座像が弟の清右衛門といわれ、その表情からは難工事に挑む強い意志を感じさせます。江戸庶民の恩人であった兄弟の往時の姿を想像させてくれる像です。


畠山重忠 板垣退助 榎戸米吉、佐藤敏雄