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TOKYO銅像マップ

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大石内蔵助

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カラフト犬(タロ・ジロ)

今回は、東に東京湾を臨む港区南部の銅像を巡ります。東京タワーに臨む芝公園・増上寺、〝四十七士の墓どころ〟と鉄道唱歌に唄われた泉岳寺など、観光名所としても知られる旧跡や寺社、公園などがあり、印象的な銅像を目にすることができます。

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大石内蔵助 (1659~1703)

建立:1921年12月
 江戸時代中期の武士。播磨国(播州赤穂)浅野家の筆頭家老で、『忠臣蔵』の主役です。一般的には大石内蔵助と呼ばれますが、名は良雄(よしお、よしたか)で内蔵助は官職名(祖父の良欽も内蔵助)です。大石家は浅野家に仕えて以降、代々家老の家柄で、良雄は父が若くして亡くなったため祖父の養子となって家を継ぎました。江戸中期頃の播州赤穂家は、産業基盤確立のために吉良家に請うて塩釜式製塩法を導入しており、良雄が家老職に就いた頃には、赤穂塩の売れ行きは本家本元の吉良塩を圧倒するまでになっていました。吉良家にしてみれば恩を仇で返された格好になり、それが遺恨の応酬となって江戸城廊下(いわゆる松の廊下は、播州浅野家が松の間詰めだったことによる脚色)で浅野内匠頭が吉良上野介への刃傷に及ぶ原因になったという説もあります。播州浅野家の断絶後、良雄は主家再興のために尽力しますが願い叶わず、最後の手段として総勢47名で吉良家邸宅に討ち入りました。この顛末を題材にしたのが『仮名手本忠臣蔵』で、舞台用に脚色された内容が一般に広まりました。なお赤穂塩を扱っていた上方の商人たちは、家名断絶に際して未払いの代金をきちんと清算してくれた播州浅野家への感謝を忘れず、『忠臣蔵』上演を応援したといわれています。
 銅像は、港区高輪の泉岳寺内にあります。大正時代に武士道鼓舞を掲げ、豪壮な語り口の『義士伝』で人気を博した浪曲師、桃中軒雲右衛門の発案で製作され、後に実業家・政治家の河合徳三郎により泉岳寺に寄進されたものです。大正10年12月に除幕。銘板入りの台座の上に立つ像は、元禄羽織を着て連判状を持つ姿を描いたものです。また泉岳寺には浅野内匠頭を始め四十七士など『忠臣蔵』ゆかりの人物の墓や吉良上野介の首を洗ったといわれる井戸などもあります。

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ペルリ提督 (1809~1955)


建立:1952年
 ペルリはオランダ語読みで、英語ではペリー。黒船を率いて日本を訪れ、その後の日本の国策を一気に〝開国〟へと傾けたアメリカ海軍軍人マシュー・カルブレイス・ペリーその人です。ペリーの父はプライバティア(私掠船)の船長出身、兄(次兄)は米英戦争の英雄で、自身も1809年に海軍に入り、海軍工廠の所長としてアメリカ海軍初の蒸気軍艦『フルトン』の建造を手がけるなど、蒸気船の建造と人材育成に尽力して『蒸気船海軍の父』、『アメリカ海軍近代化の父』と呼ばれました。後に東インド艦隊の司令官となり、日本を訪れることになります。
 いわゆる黒船来航の際、ペリーが率いていた4隻のうち2隻は測量用の艦船でした。ペリーの来日目的は日本に開国を求めること(寄港地確保のため)にあり、同時に港湾の測量を計画していました。ペリーはアメリカの国威をもって迫れば日本は要求に従うだろうと考えていたようですが、結局は幕府が示した開国の返答延期を受け入れます。理由は諸説ありますが、港湾測量をするうちに、手元にあった日本地図が科学測量を駆使する自分たちの測量と寸分たがわぬ正確さを持っていることを知ったためといわれます。この地図は、かつてシーボルトが国禁を破って持ち出した『大日本沿海輿地全図』を元にしたもので、このことによって、日本が予想以上の文明国であるとの認識を持ち慎重姿勢になった理由といわれます。
 銅像は、日比谷通り沿いの芝公園内(増上寺正門前あたり)にあります。1952年に催された日本開国百年記念祭に際し、ペリーの生誕地であるロードアイランド州ニューポート市から親善のために贈られたもので、イギリス海軍の影響が色濃かった18~19世紀前半頃の高襟の軍服姿を描いた胸像です。ペリーの顔は、軍服姿の肖像画の、貫禄を感じさせる風貌が知られていますが、像のほうは若々しく精悍さ溢れる表情になっています。

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港区内大学の銅像

 港区は、昭和22年に赤坂区、麻布区、芝区が合併して誕生しました。日本初の小学校(御成門小学校)や新聞社(読売新聞社)が建設されるなど、日本の近代的な教育、報道の出発点としても知られ、私立大学が数多く存在します。
明治元年に近代私学として福沢諭吉が創設した慶応義塾が、港区三田の地に移転してきたのは明治4年。これが現在の慶應義塾大学三田キャンパスで、構内には創設者・福沢諭吉(1835-1901)の胸像があります。有名な著作『學問ノスヽメ』(学問のススメ)など教育啓蒙で知られる福沢諭吉ですが、教育に留まらず、西洋文化や思想をいち早く日本に紹介するなど、日本の近代化を牽引した明治を代表する教育家・思想家でした。
白金にある明治学院大学のキャンパスには、同校の初代総理であるJ.C.ヘボンの胸像があります。幕末の安政6年(1859)に宣教医師として来日したヘボンは、教育にも力を注ぎ、後に明治学院大学へと発展するヘボン塾を開設しました。またヘボン式ローマ字の考案や日本初の和英・英和辞典『和英語林集成』の編纂など、日本における語学普及に与えた影響は非常に大きなものがありました。
福沢諭吉 ヘボン

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その他

 港区には、江戸期の大名家の菩提寺が多く存在します。また公園も多く、区民の憩いの場になっています。
芝公園の増上寺の境内には、浄土宗の開祖、法然(法然房源空・1133-1212)の幼少時代(勢至丸)の像があります。9歳で父を亡くした勢至丸は比叡山延暦寺に上り、出家して仏門に帰依します。延暦寺より下った後は浄土宗を開いて教えを広め、親鸞も法然の弟子でした。昭和57年(1982)に当時の増上寺執事長が寄進したものです。
 徳川家の墓所がある増上寺には、第14代将軍・徳川家茂の正室であった静寛院和宮像(1846-1877・製作/慶寺丹長師)の像もあります。安国殿内に設置され、普段は一般公開されていません。
元麻布にある麻布山善福寺は、真言宗の開祖空海により創建。鎌倉時代に親鸞が布教に訪れ、以後浄土真宗に改められて現在に至っています。親鸞上人像は、昭和11年7月に建立。幼い我が子を亡くした廣瀬精一氏が、これをきっかけに真宗の教えに深く感じ、像を作って寄進したといわれます。
  境内には他に福沢諭吉夫人の墓や、初代アメリカ公使、タウンゼント・ハリスの記念碑(公使館が置かれていた)、樹齢約750年という天然記念物の逆さ銀杏などがあります。
麻生十番駅から善福寺に向かう途中には、物悲しい由来の小さな女の子像もあります。佐野きみ(1902-1911)は、静岡県清水市で生まれた女の子で、生活苦から外国人宣教師に預けられたものの、栄養失調で結核を発症し、麻布の教会に併設された孤児院で亡くなりました。この経緯が、後に作詞家・野口雨情により『赤い靴』として描かれました。なお、神奈川県横浜市の山下公園には座像が、生誕の地の静岡県清水市には、母との別れの場面を描いた母子像があります。
最後に人物ではありませんが、芝公園の東京タワーの「足元」には、第1次南極越冬隊に同行し、奇跡の生存ドラマの主人公となった樺太犬のタロ(タロウ)とジロ(ジロウ)たち15頭の「南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像」があります。タロとジロは兄弟犬で、1955年生まれ。1956年に昭和基地で隊員たちと越冬を開始しますが、悪天候などトラブルが重なって越冬隊は帰国。犬たちを連れ帰る余裕もなく、わずか1か月分の食料を残して置き去りにされます。生存は不可能だろうと思われましたが、1年後に越冬隊が訪れると、タロ・ジロの2頭が生存。この奇跡は日本だけでなく世界にも伝えられ、大きな反響を呼びました。
 銅像は、1959年に開業間もない東京タワーの入り口横に設置されました。2013年5月東京タワーから撤去され、7月13日から9月1日までお台場のフジテレビ「お台場合衆国2013」会場内(有料スペース/大人1700円)に展示され、その後は立川の国立極地研究所に展示される予定。
 製作は渋谷駅前の「ハチ公像」も手がけた彫刻家・安藤士。タロとジロを筆頭に、昭和基地に残された15頭の姿を描いています。
法然(勢至丸) 親鸞
佐野きみ

カラフト犬
(タロ・ジロ)