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TOKYO銅像マップ

東京大学構内

古市公威

ジョサイア・コンドル

チャールズ・ウェスト

濱尾 新

三好晋六郎

山川健次郎

エドワード・ダイヴァース

青山胤通

佐藤三吉

エルヴィン・ベルツ

ユリウス・スクリバ

レオポルド・ミュルレル

下山順一郎

隈川宗雄

ハチ公と上野英三郎

 東京の銅像を巡る旅、今回は文京区を訪ねます。文京区は、皇居の北側に位置しており、閑静な住宅街が多くを占め、文人、学者が多く住んでいたことでも知られます。また、本郷にある東京大学は、明治10年(1877)に日本初の近代的な大学として設立された歴史ある国立大学です。東京大学のルーツは、幕府によって運営されていた昌平坂学問所などの教育機関で、明治維新後、欧米の教育制度を見習って、それまで細分化されていた学問所や機関を統合。近代的な公立教育機関として誕生した東京大学は、日本から派遣した海外留学生や外国人講師を招くなどして、教育の近代化と人材育成に大きな役割を果たしました。現在も「東の東大・西の京大(京都大学)」などと呼ばれるほど、受験生の憧れ、目標とされている東京大学。実は、銅像の殿堂でもあるのです。そこで、東京大学構内の銅像の数々をご紹介しましょう。ちなみに、文京区内はJRの駅がないそうですが、ご存知でしたか?
 東京都文京区の東京大学には、上記の本郷キャンパスのほかに通りを挟んで弥生キャンパスがあり、農学部と大学院農学生命科学研究科が置かれています。本郷キャンパスほど多くはありませんが、弥生キャンパス校内にも魅力的な銅像があります。

(写真をクリックすると説明もご覧になれます。ポップアップブロックを解除してください。)


古市公威 (1854~1934)

建立:1937年
製作:堀進二
 古市公威(ふるいちこうい)は、幕末に姫路藩士の子として誕生し、開成学校(元は旧幕府学問所)を初めとして学業の道に進みました。20歳を過ぎて新政府派遣の海外留学生としてフランスに渡り、欧州の進んだ土木・工学を学んで帰国。内務省(建設省、国土交通省の前身)の技師として職務に就くかたわら、東大講師として教鞭を執りました。後に統合により東大工学部となる工科大学の初代学長に就任。日本の土木の技術・行政面の近代化に大きな足跡を残しました。また日本初の工学博士でもあります。技師(土木工学技術者)は、技術・行政全般に通じ、兵ではなく将帥、指揮者でなければならない。将に将たる人であれ、と説いたことでも知られています。
 銅像は、長年の業績を称えて製作され、1937年に建立。堀進二製作の像は、杖を持ちソファーに腰をかけた姿を描いており、穏やかな表情が印象的な像です。正門を入って左、工学部11号館横に置かれています。

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ジョサイア・コンドル (1852~1920)

建立:1922年
製作:新海竹太郎
 ジョサイア・コンドルは、1852年にイギリス・ロンドンに住む銀行員の子として誕生。父の死後、建築家を志します。ロンドン大学などで建築学を学んだのち、1876年にイギリスの名建築家に因んだソーン賞を受賞したことをきっかけに、日本政府の招きを受けて明治10年(1877)に来日しました。日本では工部大学校(現在の東大工学部建築学科)などで教鞭を執った後に建築事務所を開いて数多くの建築物を手がけました。手がけた作品の多くは解体・震災や空襲などによる損壊で失われましたが、1891年竣工のニコライ堂や、三菱財閥の岩崎久弥本邸(現在は旧岩崎庭園内の建築物として現存)など、重要文化財になっている建築物を数多く手がけました。有名な鹿鳴館(1940年に解体)も代表的な作品です。日本の建築学の発展に多くの足跡を残したジョサイア・コンドルは1893年に日本人女性と結婚、1914年には工学博士号を取得しましたが、1920年に脳溢血で世を去りました。
 銅像は、没後2年の大正11年(1922)に、長年の功績を称えて製作が決定し、翌年除幕されました。製作は新海竹太郎で、東大内の銅像では比較的数が少ない台座付きの立像になっています。また台座には2体の邪鬼も描かれています。

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チャールズ・ウェスト (1847~1908)

製作:沼田一雅
 チャールズ・ウェストは、1847年にアイルランドのダブリンで生まれました。大学で機械工学を修めたのち、製鋼所で働くかたわら造船技術を修得しています。日本政府の招きで明治15年(1882)に来日。工部大学校講師として機械工学、造船学を教えました。周囲を海に囲まれた日本においては、産業の根幹となる機械工業の発展と同時に造船と海運の近代化もまた急務であり、チャールズ・ウェストの教壇で学んだ学生の多くがこれらの分野に巣立ち、その近代化に邁進しました。来日後はそのまま日本に滞在しましたが、1908年、惜しまれつつ世を去っています。
 銅像は、台座付きの胸像で彫刻家・沼田一雅(ぬまたいちが)の手によるものです。像の周囲にはライトが設置されており、夜間はコンドル像とともにライトアップされますが、胸像でライトアップの設備を持つものは非常に珍しいといえるでしょう。なお、この像の原型となった石膏像も工学部機械工学科に所蔵(非公開)されています。

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濱尾 新 (1849~1925)

建立:1932年
製作:堀進二
 濱尾新(はまおあらた)は、幕末に豊岡藩士の子として生まれ、明治維新後は慶應義塾大学などで学びます。明治5年(1872)に文部省に出仕してからは教育行政の第一線で活躍し、明治26年に東大(当時は帝国大学)の第3代総長に就任します。その後、入閣して文部大臣を務めますが、明治38年に第8代総長として東大(当時は東京帝国大学)に復帰し、以後7年間総長職を務め、施設や教育機関としての機能強化を進めました。現在、多くの学生に愛されている正門から銀杏並木、大講堂に至る施設の配置や意匠は濱尾新のアイデアが反映されたものといわれています。
 銅像は、没後7年目の1932年に建立。ソファーに腰をかけ、足を組んでリラックスした姿は古市公威像も手がけた堀進二の手によるものです。安田講堂と三四郎池の間の道に面して、安田講堂を見つめるように置かれています。台座も含めると約4メートルという大きさが目を引きます。

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その他の博士たちの銅像

三好晋六郎 (1857~1910)

建立:1914年
製作:武石弘三郎
 幕臣の子として誕生。明治維新後は造船の近代化を志し、1879年に工学大学校機械工学科を卒業したのちイギリスへ留学しました。グラスゴーの造船所で当時世界をリードしていたイギリスの造船技術を実地で学び、その経験と知識を日本へ持ち帰ります。帰国後は造船技術科助教授を経て、1886年に教授へ昇格しました。明治中期以降、日本海軍はその近代化と戦力拡充の課程でイギリス式の造艦技術に範をとるようになりましたが、こうした技術的な基礎確立や新技術の導入に大きな功績がありました。
 銅像は、書籍に手を乗せた姿を描いた胸像で、工学部5号館の奥に置かれています。

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山川健次郎 (1854~1931)

建立:2006年
 幕末に会津藩士の三男として生まれました。しかし会津戦争の敗北の結果、謹慎・逃亡の末に長岡藩士の書生となり、それをきっかけに学業を志すことになります。明治維新後に国費留学生に選抜されて渡米。エール大学で物理学を学び、学位を得て帰国。東京大学設立後は、外国人教授の助手を経て、明治12年(1879)日本人初の物理学教授になりました。明治21年には東大初の理学博士号を得るなど、物理学の普及と後進育成に尽力しました。途中、辞任なども経験しましたが、1920年まで東大(東京帝国大学)総長を務めました。
 胸像は昭和5年(1930)の製作で、曾孫から大学に寄贈され、台座を新造して安田講堂真裏(理学部1号館前)に設置されました。

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エドワード・ダイヴァース (1837~1912)

建立:1900年
製作:長沼守敬
 明治6年(1873)に化学の講師として来日したイギリス人理化学研究者・教師。工部大学校、理科大学で教鞭を執りました。来日時は36歳の若さでしたが、本国イギリスでは次亜硝酸塩の発見などですでに研究者としての名声も高く、ヨーロッパの理学・化学研究の最先端に立つ人物の一人でした。日本滞在は26年の永きに渡りました。
 銅像は、帰国の翌年に長年の功績を顕彰して建立されました。豊かな髭を蓄えた姿が印象的な胸像で、理学部7号館のバス通り側角に置かれています。

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佐藤三吉 (1857~1943)

 幕末に大垣藩士の子として誕生。明治15年(1882)に東大医学部を卒業したのちドイツへ留学して最先端の医学を学びました。帰国後は医科大学教授として後進の育成に努め、明治34年(1901)には東京帝国大学付属病院の院長に就任。外科の権威として、日本の医学界の近代化に尽力しました。
 胸像は胸像で、構内バス通りの売店の向かいに置かれています。


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青山胤通 (1859~1917)

建立:1920年
製作:新海竹太郎
 青山胤通(あおやまたねみち)は、幕末に苗木藩士の三男として誕生。1882年に東京大学医学部を卒業後、恩師であったエルヴィン・ベルツの推挙を受けてドイツへ留学、内科を専攻しました。帰国後は東京帝国大学医学大学校内科学教授(のち学長)として教鞭を執る一方で、伝染病研究所所長などを歴任し、日本の医学発展に尽力しました。日本最初の癌研究機関である癌研究会の設立者の一人でもあります。
 銅像は胸像で、佐藤三吉像の左並びに置かれています。

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エルヴィン・ベルツ (1849~1913)

建立:1907年
製作:長沼守敬
 ベルツは、ドイツ人の医師・医学者で、1876年に来日。最初は東京医学校で生理学と薬物学を教えましたが、翌年の東京大学医学部発足に伴って内科学の教壇に立ちます。当時の医学教育は、まだ日本人教授が足りなかったため外国人教授に期待するところが大きく、ベルツは産婦人科学まで任されていたそうです。教授職は1902年に退きましたが、そのまま日本に留まり、宮内庁侍医も務めました。1905年帰国。1911年没。銅像についてはスクリバ像を参照してください。

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ユリウス・スクリバ (1848~1905)

建立:1907年
製作:長沼守敬
 1881年から東京大学医学部で外科の教鞭を執った(眼科・皮膚科も担当)ドイツ人医学者です。ベンツ同様、当時、日本人教授が不足していた状況で外科教育の発展に残した功績は大きく、退職後は聖路加病院の外科主任も務めましたが、1905年、57歳の若さで亡くなりました。
 銅像は、1907年に日本医学界への貢献を称えて建立されました。ベンツ像・スクリバ像ともに台座を備えた胸像で、画家・彫刻家の長沼守敬の製作です。ほぼ同時期に東大に在籍し教壇に立った2人の像は、並んで御殿下グラウンド脇に設置されています。像の解説文には「内科学外科学を教授指導しわが国近代医学の真の基礎を築いた恩人」とあります。

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レオポルド・ミュルレル (1824~1893)

建立:1895年
製作:藤田文蔵
 ドイツ陸軍軍医で、日本の医学教育の整備とドイツ式医学の普及に大きな影響を与えた人物です。明治4年(1871)に、ドイツ海軍軍医のテオドール・ホフマンとともに来日。ミュルレルは解剖学・外科学・眼科・婦人科などを担当、ホフマンは内科学を担当しました。ミュルレルの日本滞在は3年ほどでしたが、当時の日本の医学は漢方から西洋医学へと大きく舵を切り始めた頃で、大学教育に先進のドイツ医学の教育を根付かせた功績は大きかったといわれています。
 銅像は、ピッケルハウベを被ったドイツ(プロイセン)伝統の軍服姿の胸像で、薬学部の東側の木立の中に置かれています。

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下山順一郎 (1853~1912)

建立:1915年
製作:武石弘三郎
 幕末に尾張藩校助教であった犬山藩士の子として誕生。明治6年(1873)に第一大学区医学校製薬学科に入学、明治11年に首席で卒業しました。その後ドイツに4年間留学し、帰国後は新設された医科大学校薬学科の教授(新設された生薬学の初代教授)に就任しました。明治21年には東京薬科大学の前身である私立薬学校になるなど、以後も日本の薬学発展に尽力しました。日本初の薬学博士号を取得しています。私財を投じて薬草園を開設するなど、薬用植物の研究や栽培に大きな足跡を残しています。
 銅像は胸像で、薬学系総合研究棟東側にミュルレル像の奥に置かれています。

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隈川宗雄 (1858~1918)

製作:朝倉文夫
 隈川宗雄(くまがわむねお)は、幕末に福島藩医の次男として誕生しました。明治2年に医師・隈川宗悦の養子となり、医学の道に進みます。明治16年(1882)に東大医学部を卒業。翌年から6年間ドイツのベルリン大学に留学します。帰国後は帝国大学医科大学教授として生化学などを担当しました。
 銅像は、医学部総合中央間(図書館)と医学部2号館に挟まれた道沿いに設置されています。スマートな台座付きの胸像で、木陰に静かにたたずんでいます。



ハチ公と上野英三郎

建立・序幕:2015年3月8日
製作:植田 努
(上野英三郎 生没年=1872~1925)
(ハチ公 生没年=1923~1935)

 東京大学構内には数多くの銅像がありますが、少し離れた農学部の構内にて2015年3月8日、新たな銅像が序幕されました。「ハチ公と上野英三郎博士」と題されたこの像は、渋谷駅の座像で知られるハチ公とその飼い主である上野英三郎博士を描いたものです。この日は、ハチの没後80年の節目にあたる日でした。
 上野英三郎(うえのひでさぶろう)は、明治4年(1872)年に三重県で生まれました。現在の東大農学部にあたる東京帝国大学農科大学農学科を卒業後は、農業土木と農器具の研究者として日本の農業の近代化に尽力しました。自身の出身学部の教授に就任すると、学生の教育にも精力的に取り組み、多くの農業土木技術者を育てています。
 大の犬好きとして知られる上野博士が生後約50日の秋田犬を購入し、ハチと名付けたのは大正13年(1924)のことでしたが、そのわずか1年半後、大学での講義中に脳溢血で倒れ、急逝しました。
 銅像は、東大農学部(弥生キャンパス)正門を入ってすぐ、通路の左側にあります。上野博士とそれを出迎えるハチの姿を描いた像は、嬉しそうにご主人様を迎えるハチの躍動感が印象的です。高さ1.9メートル、幅約1.8メートルの台座付き像で、ハチが意外に大型だったことが分かります。長期の出張などで長い時間会えなかった時などは、体の大きなハチがはしゃいで大喜びし、博士もそれに応えるように再会を喜んだといいます。
 動物の描写で定評がある彫刻家・植田努氏による像は温かみに溢れ、深い愛情で結ばれた博士とハチの在りし日の姿を想像させてくれます。また博士の服装やハチの装具の描写も緻密で、近寄って見ても見応えがあります。また、農学部正門右横にある「農学資料館」には、上野博士の胸像が展示されています。木製の台座付きの像で、背広にネクタイという服装ですが、こちらは表情に研究者・教育者らしい威厳を感じさせる表現になっています。
 なお、博士の故郷である三重県津市にも「上野英三郎博士とハチ公像」と題された銘板入り台座付きの立像(2012年除幕)があります。三重県の像は、ハチと博士を一対で描いた初めての像でした。

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三好晋六郎 ジョサイア・コンドル 古市公威 チャールズ・ウェスト 山川健次郎 エドワード・ダイヴァース 青山胤通 佐藤三吉 ユリウス・スクリバ エルヴィン・ベルツ レオポルド・ミュルレル 下山順一郎 隈川宗雄 濱尾 新