サイト内検索

上野恩賜公園

西郷隆盛

小松宮彰仁親王

野口英世

ボードワン博士

安井誠一郎

日本で最初の洋風都市公園第一号。
上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)は、東京都台東区にある公園。一般には通称の上野公園で知られる。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」とも称される。桜の名所として有名であり、公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。
ここで紹介している5体の他に、東京国立博物館にエドワード・ジェンナー、旧東京音楽大学奏楽堂に滝廉太郎の像があります(いずれも入場有料)。

(写真をクリックすると大きな写真と説明がご覧になれます)

西郷隆盛 (1828~1877)

 

製作:高村光雲(人物)、後藤貞行(犬)
施工:1897年 除幕:1898年12月
 上野のお山の西郷さん、と呼ばれて親しまれている銅像です。西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の身ながら時の藩主・島津斉彬に見出され、やがて戊辰戦争を主導して倒幕と明治新政府の樹立に大きな役割を果たした人物。大久保利通、桂小五郎とともに維新三傑の一人に数えられています。
 上野の像のモチーフは、犬を連れ、浴衣姿で兎狩りに興じている姿。この姿を提案したのは従弟の大山巌で、私利私欲のない無垢な人間としての西郷隆盛を表現するという志であったそうです。また、西郷の愛犬は雌犬の「ツン」でしたが、銅像製作当時はすでに死んでいたため、別の雄犬をモデルに製作されています。
 銅像の完成は明治31年(1876)で、日本初となる銅像除幕式が行われました。東京市の名物として市民に愛されただけでなく、地方から訪れる観光客にも人気でしたが、関東大震災に際しては尋ね人の張り紙掲示板の役割も務めました。現在は周囲に高いビルが建っていますが、明治から昭和初期にかけては遠くからでも目立ったといいます。
 余談ですが、西郷隆盛の未亡人は像が兎狩りの姿を模したとは知らず、除幕式の際に「浴衣で散歩することはなかった」と不満をもらして周囲を慌てさせたというエピソードも残っています。西郷は日本初の陸軍大将となったことでも知られていますが、平服姿で像が作られた背景には、西郷が西南戦争で賊軍になったことが影響していたようです。なお鹿児島には軍服姿の銅像が作られています。
 見所は、浴衣の上からもふくよかな体躯を想像させる肉感表現で、時代の変わり目を激しく生きた人物というよりは、大山巌が意図したように柔和な人物像が随所に感じられます。像それ自体も大きいですが、人物の大きさ、大らかさを感じさせる銅像です。

TOP    BACK

小松宮彰仁親王 (1846~1903)

製作:大熊氏廣(彫刻家)
建立:1912年2月 除幕:1912年3月18日
 小松宮彰仁親王は、江戸時代末期の弘化3年(1846)に皇族伏見宮邦家親王の第8皇子として誕生。戊辰戦争で奥羽討伐総督として官軍を指揮したほか、のちの西南戦争でも旅団を指揮して出征しています。明治時代は欧州王族の例に倣って日本の皇族も進んで軍務に就くべきという雰囲気が皇族内にあり、彰仁親王もそれを奨励し、自らも多くの戦場に立ったことで知られています。明治23年(1890)には陸軍大将となり、近衛師団長、参謀総長という要職を歴任しています(のちに元帥)。また軍務の一方で、日本赤十字社の総裁として赤十字活動の奨励・発展に尽力するなど社会奉仕・事業団体の総裁を務め、現在、皇族が公務として行っている社会活動の礎となりました。なお銅像建立を提案したのは、西南戦争の際に負傷者介護にあたる公的機関(のちの博愛社。日本赤十字社の前身)の設立を提唱した佐野常民で、明治35年の日本赤十字社設立25周年の記念としてでした。
 像は、勲章を佩用した軍装の乗馬姿で明治45年(1912)に除幕。上野動物園正面入り口・向かって左側の木々に囲まれた場所にあります。見所は軍装の装飾(正帽の前立は見事です)、勲章、装備、馬具の精緻きわまる描写。そして並足の騎馬の抑えた躍動感と馬上の親王の凛として威厳あるたたずまいです。周囲には桜の木があり、花咲く春が銅像の見ごろと言えるかもしれません。

TOP    BACK

野口英世 (1876~1928)

製作:吉田三郎
建立:1951年
 野口英世は、日本だけでなく世界的にも今なおその業績が高く評価されている細菌学者です。一般には、現在発行されている千円札の肖像、といったほうが通りがいいかもしれません。誕生は明治9年(1876)で、幼名は清作。幼い頃に手に負った大火傷で指が癒着(のちに手術で分離)して困難を背負ったものの努力で克服し、医学の道に進んでからは、数々の研究・発見でその名が海外でも知られるようになりました。梅毒の研究ではノーベル賞の候補にも挙がりました。のちにロックフェラー財団の要請により、当時、効果的な治療法がなかった黄熱病の研究に挑み、ワクチン開発の端緒を開く実績を残しましたが、研究のために渡ったガーナで自らも感染して亡くなりました。
 上野公園内の銅像は噴水広場近くの林の中にあり、試験管を持って研究中の姿(生前の写真をもとにしたといわれています)を描いた立像となっています。像の製作は、昭和22年(1947)に野口英世と同郷(福島県)の玉応不三雄により計画されましたが資金難で頓挫し、玉応氏も死去。しかし、医学界を中心に玉応氏の遺志を継いで製作が進められ、昭和26年に完成にこぎつけたとのことです。像の台座には「人類の幸福のために」を意味するラテン語が刻まれています。なお、ほかにも郷里の福島県に立像があるほか、アメリカのロックフェラー大学、ガーナなど生前の活動と縁が深い各地に銅像があり、野口英世の業績の大きさを物語っています。

TOP    BACK

ボードワン博士 (1820~1885)

原型製作:林 昭三
建立:1973年10月 再建:2006年10月
 ボードワン博士(アントニウス・フランシスカス・ボードウィン)は、オランダの軍医で、1862年に来日しました。主な業績はオランダ医学の普及ですが、上野公園にとって生みの親とも言える深い縁をもった人物です。
 ボードワンは医学所講師として1891年まで滞在(途中2回帰国)し、オランダ医学の普及に尽力しましたが、この間に明治維新を迎えた日本はドイツ医学の導入へと向かいました。しかし、大学東校(東京大学医学部の前身)が招く予定だったドイツ人講師の来日が普仏戦争の影響で遅れたため、臨時講師となりました。当時、大学東校と病院は移転が決まっており、上野の森はその移転先候補の一つでした。ボードワンは自然が工事によって失われることを危惧し、政府に保存を提言。その結果、大学の移転先は本郷に決まり、上野の森は西洋式公園として保存されることになったのです。
 銅像(胸像)は、上野公園100年を記念して1973年に建てられたものですが、本人ではなく駐日オランダ領事だった実弟をモデルにしたものでした(豊かな髭を蓄えた人物の像)。そこで2006年、彫刻家林昭三氏の原型製作による新しい像が据えられました。端正な面立ちに近代ヨーロッパの軍服が非常に似合っている像です。場所は、噴水近くの林の中。少し見つけにくい場所ですが、上野公園を静かに見守っています。

.

TOP    BACK

安井誠一郎 (1891~1962)

建立:1966年5月
 安井誠一郎は、戦前・戦後にかけて活躍した官僚・政治家で、厚生事務次官や初代東京都知事(1946年より東京都長官を務めていましたが、任期中の1947年に地方自治法改正に伴って、それまでの東京都長官から東京都知事に名称変更されたため初代都知事に)など多くの要職を務めました。特に都知事として戦後の食糧難や復興対策、東京オリンピックの招致に尽力したことで知られており、都知事退任後、その功績により名誉都民に推されています。
 この胸像は上野駅公園口前の東京文化会館前にありますが、安井家の墓所がある多摩霊園内には立像があります。
 


野口英世 安井誠一郎 西郷隆盛 ボードワン博士 小松宮彰仁親王