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TOKYO銅像マップ

早稲田~新宿

大隈重信(二代目像)

大隈重信(初代像)

小野 梓

坪内逍遙

夏目漱石

小泉八雲

太田道灌

今回は早稲田~新宿にかけて銅像を巡ります。
早稲田~新宿界隈は都庁が所在し、東京の行政機関の中心地であると同時に、教育・文学に関わる多くの偉人たち縁の地でもあります。

(写真をクリックすると説明もご覧になれます。ポップアップブロックを解除してください。)

早稲田大学の銅像

 早稲田大学は、大隈重信・小野梓を中心として明治15年(1882)に設立された東京専門学校を前身とする私立大学です。1902年に早稲田大学と改称。創立30周年を記念して大正2年(1913)に「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を建学の理念として制定。設立以来、数多くの人材を輩出している私学の雄、そして〝都の西北〟の学び舎として多くの学生の憧れ、目標でもあります。
 大学構内には、その設立や業績に関連した人物の銅像があります。今回、メインで紹介している大隈重信、小野梓、坪内逍遥のほかにも、野球を通じて日米親善に貢献した体育部長・安部磯雄や学生野球の父と呼ばれる飛田穂洲の像(元グラウンドだった早稲田図書館前)などがあります。
 隣接の大隈庭園には大隈重信夫人・綾子の像(賢夫人と評され、夫婦円満で知られた)や孔子像もあります。
 

大隈重信 (1838~1922)

 明治から大正にかけて活躍した思想家・政治家・教育者で、現在の早稲田大学を開設するなど教育の近代化にも大きな足跡を残した偉人です。
 天保9年(1838)に肥前国佐賀藩の藩士(砲術師範)の子として誕生。7歳で藩校弘道館に入学しますが教育方針に反発、のちに改革運動を起こしています。その一方で、国学、蘭学を熱心に学び、蘭学に関しては後に教授となり藩校弘道館で講義したほか、藩校英学塾で英語やアメリカの文物・思想を学んでいます。こうして海外の思想・文化・教育に精通し、また語学にも堪能であった大隈重信は、明治政府が誕生すると外国事務局判事として対外諸問題を担当したのをきっかけに、明治6年(1873)には参議兼大蔵卿の要職に就くなど、政府の中枢で活躍します。
 大隈重信の周辺には多くの人材が集まりました。佐賀藩時代からの盟友である江藤新平や、若手官僚として活躍し、後に大隈とは〝政敵〟ともいえる関係になる伊藤博文、家族ぐるみの親交があったという福沢諭吉など、欧米列強をして“アジアの奇跡”といわしめた日本の急速な近代の原動力となった人々がいました。しかし、後に国家構想を巡り、財政上の問題や閣僚との対立が原因で、大隈は下野(明治14年の政変)します。
 閣僚時代、大隈は国会開設の必要を強く訴えており、これに備えて盟友の一人である小野梓とともに明治15年(1882)に政党(立憲改進党)を結成し、また同年に「学門の独立」の精神を基として東京専門学校(早稲田学校と別称された)を開設しました。
 明治21年には政府の求めに応じて外務大臣として政界に復帰。後に総理大臣(第8代、第17代)となります。大正5年(1916)の総理大臣辞任によって政治の世界を退きましたが、この時の年齢は実に78歳と6ヶ月という高齢で、この最高齢記録は今だ破られていません。大隈重信が世を去ったのは、政界引退から6年後のことでした。

大隈重信(二代目像)

建立:1932年10月17日
製作:朝倉文夫
 銅像は、新宿区早稲田の早稲田大学構内にあるガウン姿の立像が有名です。この像は昭和7年(1932)に早稲田大学創設50周年と大隈重信没後10周忌の節目として建立されたもので、実は構内の銅像としては二代目。製作は彫刻家の朝倉文夫です。杖をついている姿が印象的な像ですが、これは明治22年に暴漢に襲われ、爆発物を投げつけられたことが原因で右足を切断していたためです。この事件で大隈は外務大臣を辞職しており、活動の主軸を教育に置いて精力的に活動していました。固く結ばれた口元や彫りの深い表情など、人物像として見応えがあります。角帽とガウンを身に付けた姿は、早稲田入学を目指す多くの学生の憧れにもなっています。




大隈重信(初代像)

建立:1907年10月15日
原型製作:小倉惣次郎
 初代の大隈重信像は、明治40年(1907)に東京専門学校開設25周年と大隈重信の古稀を記念して製作されたもので、大礼服に勲章を佩用した姿で描かれており、彫刻家・小倉惣次郎の製作によるものです。作者は特に表情の模写に腐心したそうで、中でも眼光鋭い目の周辺の描写には細心の注意を払ったそうです。二代目の像と表情を見比べてみるのも興味深いかもしれません。
 建立時には構内(現在二代目像のある場所)に建てられましたが、大学構内に置く像としては教育者としての姿がより好ましいとしてガウン姿の二代目像と交替。今は大隈講堂内北側廊下にあります。北側廊下は立ち入りできませんが、像は大隈講堂左側の通路から垣間見ることができます。
 なお、大隈重信の銅像は、他に国会議事堂内の立像と出身地である佐賀県の大隈記念館に大礼服姿の立像がありますが、いずれも政治家としての大隈重信を描いた像です。 

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小野 梓 (1852~1886)

建立:1935年11月23日
製作:本山白雲
 明治初期に活躍した法学者・政治思想家。
 嘉永5年(1852)に土佐の宿毛の生まれで、戊辰戦争に参加したのち、法律の勉強のためアメリカ、イギリスに留学。帰国後は官吏として法整備や国家会計の公正化などに手腕をふるったものの、明治14年に政府から逐われた大隈重信とともに下野。大隈を補佐して立憲改進党の結成に尽力し、東京専門学校の設立でも中心的役割を果たしました。東京専門学校は、政府を逐われた大隈と小野が設立したことから謀反人の学校とみなされており、政府から様々な妨害を受けましたが、その苦難の渦中で肺結核が悪化し、亡くなりました。享年33歳。大隈は「わが輩は両腕を取られたよりも悲しく思ったんである」と、その早すぎる死を惜しんだといいます。
 早稲田大学では、大隈重信を「建学の父」、小野梓を「建学の母」と称えています。
 銅像は、昭和10年に建立されました。小野梓と同郷の彫刻家・本山白雲の手による胸像で、見事な髭を湛え、背広をスマートに着こなした姿が描かれています。建立当時は大隈会館庭園内の招魂殿前に設置されていましたが、後に小野記念講堂(七号館)に移され、現在は第一学生会館跡に新たに建設された小野梓記念館の中庭正面に大隈講堂に向いて置かれています。なお早稲田大学は2008年に小野梓の生誕150周年を記念し、高知県宿毛の生家のあった土地を取得。新たに製作した銅像とともに宿毛市に寄贈しています。

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坪内逍遥 (1859~1935)

建立:1962年5月22日
製作:長谷川榮作
 明治から昭和初期に活躍した小説家・翻訳家・劇作家。
 安政6年(1859)に、当時尾張藩領だった美濃国加茂郡で尾張藩士の子として誕生。実家の地元にあった洋学校を卒業後、東京大学予備門を経て東京大学(後の東京帝国大学・東京大学)を卒業。坪内逍遥の名を世に知らしめたのは評論『小説真髄』でした。このなかで勧善懲悪に偏重していた江戸期の功利的文学を批判し、人情(人物・心理描写)や、写実的描写の重要さを説きました。これにより日本に近代文学を芽吹かせたといわれています。
 教育者としての活躍は、創設間もない東京専門学校(早稲田学校)の文学講師として招かれたのがきっかけで、後に同校の教授になります。
 当時、政府から敵視されていた東京専門学校は、設立者の一人である大隈重信が学生への風当たりを考慮して学校行事に出ない(約15年続いたといわれます)など、厳しい状況でしたが、坪内は文学の講義を担当して、まだ若いこの学校を支えました。この功績により、創設者・小野梓とともに学校創設期を支えた高田早苗(憲法・行政法ほか)、天野為之(経済学ほか)、市島謙吉(高田を補佐し、財政面や図書館の充実に尽力)とともに“早稲田の四尊”の一人に数えられています。
 早稲田大学構内の演劇博物館前に置かれている銅像は、昭和37年に演劇博物館創立70周年を記念して建立されました。彫刻家・長谷川榮作の製作による胸像で、大学にて「シェークスピア」を題材に講義する姿を描いたものです。台座は歌碑になっており、會津八一(歌人・美術史家。坪内に招聘されて早稲田中学校教員、後に早稲田大学文学部講師兼任)が坪内逍遥を偲んだ和歌が刻まれています。

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夏目漱石 (1867~1916)

建立・除幕:1991年
製作:富永直樹
 明治時代から大正初期にかけて活躍した小説家・英文学者です。江戸・牛込(現在の新宿区喜久井町)の生まれで、帝国大学(後の東京帝国大学)英文科を卒業後、教員生活を経てイギリスへ留学。帰国後は東京帝大講師を務めるかたわら、本格的な執筆活動を開始しました。『我輩は猫である』で注目を集め、以後『坊ちゃん』『三四郎』など、現在もなお愛される小説の数々を執筆。明治期を代表する文豪の一人です。朝日新聞に連載された長編小説『明暗』が最後の作品(連載188回で絶筆・未完)となりました。1984年から20年間発行された千円札に肖像が使用されたことは記憶に新しいところです。
 銅像は、地下鉄東西線「早稲田」駅から10分ほど歩いた場所にある「新宿区立漱石公園」の入り口にあります。夏目漱石が終焉までの10年間を過ごした場所で、現在は公園として整備され、園内には『我輩は猫である』のモデルとなった初代飼い猫の13回忌に建てられた猫塚(現在のものは再建された二代目で猫のほか鳥や犬も供養)もあります。銅像は彫刻家・富永直樹製作の胸像で、平成3年(1991)に除幕。お札の肖像などでもお馴染みの背広姿で、台座には漱石自筆の俳句も刻まれています。
 このほかに英語教師として4年余りを過ごした熊本市にも立像があります。

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小泉八雲 (1850~1904)

除幕:1993年
 明治時代の新聞記者・小説家・日本研究家です。ギリシャ出身で、本名はパトリック・ラフカディオ・ハーンといい、軍人であったイギリス人の父とギリシャ人の母の間に生まれ、明治23年(1890)に英語教師として来日しました。最初の赴任地である島根県松江で日本人女性と結婚。以後、英語教師・英文学講師として活躍しました。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗るようになったのは東京帝国大学の講師時代です。後に早稲田大学でも教鞭をとりました。小説家としては、日本の風俗・文化・伝承を題材として多くの作品を残しましたが、中でも日本に伝わる伝説・奇談を集めた『骨董』『怪談』が怪奇文学の代表作として知られています。
 銅像は、終焉の地となった新宿区大久保にある新宿区立の「小泉八雲記念公園」の中にあります。この公園は、小泉八雲の出身地であるギリシャ・レフカダ島(島の名がラフカディオというミドルネームの由来となった)と新宿区が友好都市提携を締結したのを記念して建設が決定、平成5年(1993)に開園されました。銅像は、ギリシャ政府から贈られた胸像で、台座には、日本とギリシャの文化への想いを英語・ギリシャ語・日本語で記したパネルが埋め込まれています。園内には像のほか、出身地のレフカダ島を模したモザイクのパネルや花壇を配したギリシャ風の集会所を模したスペースがあります。銅像もさることながら、公園内の隅々に“ギリシャ・レフカダ”が配されている点も見どころです。

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太田道灌 (1432~1486)

建立:1978年
製作:山本豊市
 室町時代後期の武将です(プロフィールは皇居~東京駅周辺をご覧下さい)。
 太田道灌には数多くのエピソードがありますが、その中でも特に有名なのが“山吹”の伝説です。道灌はある日、鷹狩りに出かけた際に急な雨に降られ、一軒の民家に立ち寄ります。家にいた若い女性に「蓑を貸して欲しい」と頼んだところ、女性は黙って山吹の花を一輪差し出しましたが、道灌は「花を求めたのではない」と憤慨します。このことを後日語ると、歌道に明るい近臣がこう語ります。「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」(醍醐天皇皇子・中務卿兼明親王)という歌の“みの”を蓑にかけ、山吹の花を示すことで貧しくて用立てられないことを言いたかったのではないか、と。貧しい庶民といえど和歌に親しみ、その心を知るのに自分はなんと不明ではないか、と大いに恥じた道灌は歌道に精進したというものです。
 このエピソードをそのまま描いた銅像が、新宿中央公園内にあります。像は「久遠の像」と呼ばれ、彫刻家・山本豊市の製作。女性が道灌に山吹の枝を差し出すというそのものズバリのシーンを描いています。像の周囲には八重の山吹も植えられており、花が咲く4月下旬頃は、山吹の花とともに像も“見頃”となります。