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TOKYO銅像マップ

番外編1 武田信玄、勝頼

武田信玄

武田勝頼

 東京の銅像を巡るこのページ、すでに80体を超える像を紹介していますが、目を東京以外に向ければまだ数多くの銅像が日本各地にあります。そこで番外編として首都圏にも目を向けてみました。
 番外編第1弾として、山梨県を訪ねます。歴史群像の読者の方は山梨県と聞いてまず戦国大名・武田氏の本拠地であることを思い浮かべる方も多いでしょう。というわけで今回は、同地にある武田氏二代の像を紹介したいと思います。
 山梨県は東京西部と隣接し、江戸時代には江戸と甲州を結ぶ甲州街道に沿って宿場町が発達、江戸に有事の際には将軍の退避先とされていました。また甲州の中心地である甲府には勤番と呼ばれる常駐の役職が置かれ、江戸の甲州街道入口には鉄砲百人組(新宿区)、甲州の入口には千人同心(八王子市)が置かれるなど、密接な関係にありました。

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武田信玄 (1521~1573)

建立:1969年4月12日
製作:盛岡勇夫、盛岡公彦(立体写真像株式会社)
原型製作:宮地寅彦
 武田信玄(信玄は法名。剃髪前の名は晴信)は戦国時代に活躍した武将です。甲斐源氏・武田氏の十九代目にあたり、青年武将の時代に父・信虎を追放する形で家督を継ぐと隣国・信濃の攻略を手始めに版図を拡大。後の時代に「戦国最強」と称せられる軍団(24将と呼ばれる家臣団に率いられた軍勢)と権謀術数を駆使して、周囲を有力大名に囲まれるという地勢的困難を跳ねのけ、戦国屈指の大国へと成長させました。宿命のライバルとなった越後の上杉謙信との「川中島の合戦」は有名ですが、勝負の決着はつかず、上洛を目指して西進していた元亀4年(1573)に病にて陣没しました。享年52。
 銅像はJR甲府駅の駅前ロータリー横にあります。甲府は、信玄の父・信虎の時代に居館(躑躅ヶ崎館)を同地に移したことから城下町として発達。以後約60年間、信玄・勝頼親子の二代に渡る武田氏栄枯盛衰の場所でもあります。像の原型は彫刻家の宮地寅彦氏、製作は盛岡勇夫氏・公彦氏(立体写真像)で、甲州発展の基礎を築いた武田信玄の遺徳を偲び、また県民の気運高揚を目的として武田信玄公奉賛会を中心に計画され、昭和44年(1969)に完成し甲府駅前の噴水近くに設置。昭和60年に現在の場所に移されました。川中島合戦で知られる諏訪法性の兜、袈裟を身につけ、軍配を手にした座像(床几に腰をかけた状態)で、台座・像本体とも約3.1メートル(合計約6.2メートル)という大型の像です。戦記物語の挿絵や肖像画でよく知られた姿ながら、表情や甲冑、武具の描写は重厚で非常に立体感があり、見応えのある大作です。

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武田勝頼 (1546~1582)

建立:2002年3月
製作:立体写真像株式会社
 武田勝頼(別名・諏訪勝頼)は戦国末期の武将で、父・信玄の没後に武田氏を継ぎ第20代当主となりました。甲州武田氏最後の当主でもあります。母は信州・諏訪氏の出身で、勝頼は庶子として生まれ、一時は諏訪氏を継ぎましたが、異母兄である嫡子・義信が謀反容疑で廃嫡されたことから継嗣となりました。治世に関しては一貫して信玄以来の拡大政策を採り、武田氏の最大版図を築きましたが、長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗すると有力家臣が多数戦死したこともあって領国支配が揺らぎ、天正10年(1582)には織田・徳川軍による領内侵攻を受け、同年3月11日に嫡男・信勝と共に自刃しました。享年36。
 銅像はJR甲斐大和駅の北側に設置されています。駅の北東には勝頼とその一族が自刃した天目山があるなど、同地は武田家ゆかりの史跡が多い場所です。像は立体写真像の製作で、台座付きの立像です。旧大和村(2005年まで村制、町村合併により現・甲州市大和町)の村制60周年記念事業として、平成14年(2002)に建立されました。右手で軍配を振りかざし、左手は陣太刀を掴んだ甲冑姿で勇壮な姿です。没年齢が30歳代ということもあり、父・信玄の像よりも若々しさ溢れる表情が印象的で、座像である信玄像が「静」の魅力とすれば、こちらは青年武将らしい「動」の表現が見どころと言えるでしょう。


源 義家 新田義貞 川崎平右衛門