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TOKYO銅像マップ

新井薬師・中野駅前 

聖徳太子

ガンジー

老子

エクナトン

ハムラビ

達磨大師

キリスト

アブラハム

ユスティニアヌス

聖フランシス

釈迦

犬屋敷の犬

 今回は中野区の銅像を紹介します。中野区は地勢的には武蔵野台地の一部に属し、平地・丘陵・河川が入り組んでいます。古くは江戸時代に農業・食料生産地として栄え、明治以降は人口流入により住宅地として発展しました。最近では隣接する杉並区と共に漫画・アニメ・ゲームのクリエイターが多く住む地域としても知られています。
 今回紹介するのは、新井薬師・哲学堂公園(中野区立)にある銅像群です。哲学堂公園は、東洋大学の創設者としても知られている哲学者(教育家、妖怪研究家としても有名)・井上円了(いのうえ えんりょう)が哲学の4聖人を祀る「四聖堂」を建設したことに始まる広大な公園です。のちに精神修養のための施設を複数設け、公園として整備されました。春には多くの花見客が訪れる区内有数の桜の名所でもあります。
 この公園は新宿区と中野区の区境を流れる妙正寺川をはさんで、新宿側にある河川調整池と運動場のある妙正寺川公園と隣接しており、この隣接部分に、「哲学の庭」と名付けられた、11体もの銅像が展示されています。

※哲学堂公園には、哲学の庭に置かれた11体のほかに、古建築物内に2体の像があります。宇宙館には「聖徳太子像」、四聖堂には寝姿の「釈迦涅槃像」があり、ともに乾漆像(かんしつぞう=麻布や木粉を材料とし、漆を結着・固化材に使用して造形する)です。古建築は通常内部未公開ですが、春と秋に公開日各1日があり、像を見ることができます。
 なお哲学堂公園が所在する中野区新井薬師には、地名の由来となった真言宗の寺院・新井薬師梅照院があり、ここにも聖徳太子像が置かれています。この像は16歳の姿を描いたもので漆喰(しっくい=消石灰等を主成分とする建築用の充填・上塗り材)像で職人の神様として祀られており、新井薬師では毎年春に聖徳太子祭が開かれるそうです。
 

(写真をクリックすると説明もご覧になれます。ポップアップブロックを解除してください。)

哲学の庭

製作:ワグナー・ナンドール
 哲学の庭は、一言で言うと3群(3輪)11体の偉人像です。作者はハンガリー出身の哲学者・彫刻家のワグナー・ナンドールで、第二次大戦で重い傷を負い、戦後は美術・博物館の研究者として精進するものの、スターリン時代に公職追放の憂き目にあって哲学者・彫刻家として活動を始めたという、なんとも波乱万丈な人物です。1956年のハンガリー動乱に参加したため故国を追われてスウェーデンに逃れ、その際に秋山ちよ(後に結婚)と出会い、1969年に移住のため来日。翌年、栃木県益子町にアトリエを築いて建築、庭園、彫刻、家具といった多彩な創作活動を行いました。ナンドールは、日本に帰化して「和久奈南都留」という日本名も得ています。日本ではあまり知られていませんが海外では著名で、しかも日本に帰化したのちは海外でも日本人彫刻家として紹介されることが多くなったそうです。
 哲学の庭は1977年に製作が始まり、17年の歳月を経て3組28体が完成。その3年後に同氏は永眠しますが、完成した銅像は故国ハンガリーや地元栃木県益子町等に建立されています。哲学堂公園の11体は、2009年、日本とハンガリーの外交開設140周年、国交回復50周年記念事業の一環として益子町から寄贈されたものです。
 哲学の庭の特徴は、人物がすべて哲学の偉人であることと、輪になって向き合う形で3群に分けて展示されていることです。人物構成は、「アブラハム、エクナトン、キリスト、釈迦、老子(世界の大きな宗教・思想の祖となった人物)」「ガンジー、聖フランシス、達磨大師(到達した哲学・思想の境地を社会に広め実践した人々)」「聖徳太子、ハムラビ、ユスティニアヌス(現在も伝わる著名な法を整備した人物)」となっています。哲学というとなにやら難しそうですが、混迷の時代の中で思想を育み、葛藤して独自の宗教観や哲学に至った偉人たちが、時代や文化、社会基盤の違いを超えて一堂に会している姿を眺めるだけでも、心が休まるのではないでしょうか。哲学の庭の銘板には、「相互理解のために」という一言が記されています。

聖徳太子 (574~622)



 飛鳥時代の皇族・政治家で、用明天皇の第二皇子として574年に誕生。推古天皇の摂政として法整備や仏教振興に努めた人物として知られています。遣隋使の派遣により大陸の進んだ文化と諸制度を取り入れて天皇中心の中央集権化により政治体制の強化・確立を進めています。10人の請願を一度に聞き、それを全て聞き分けたというエピソードでも知られますが、実際は順に聞いてその内容を一つも欠けることなく記憶したのではないかと言われています。また名前に関しても、聖徳太子の名は存命中には用いられなかったとして、現在では「厩戸王(うまやどおう)」の名で呼ばれ、聖徳太子は別名とされることが一般的になりつつあるようです。
 銅像は、旧一万円札等の肖像画とは異なり、やや若い気鋭の官僚といった雰囲気で柔和な表情が印象的な立像です。スマートで颯爽とした「青年貴族官僚」といったところでしょうか。飛鳥時代の朝服姿や冠にも日本生まれの彫刻家とは異なる独自の解釈が見え、腰の帯剣位置には蓮の花の紋章が描かれるなど、非常に興味深い姿の像です。

ハムラビ (B.C.1810~1750頃)

 ハムラビ(ハンムラビ、ハンムラピとも)は、バビロニア帝国建国の英雄で帝国初代の王です。元々はメソポタミアの都市国家の1つであるバビロンの第6代の王で、国内の政治・軍事制度を整備して小国バビロンを強国に育て、周囲の国家や隣接する地域を征服・統合して広大な地域国家バビロニアを建設しました。紀元前1792年から40年余りの期間、バビロニア帝国初代の王として君臨しましたが、その統治に大きな役割を果たしたのが別名「復讐法」とも呼ばれるハムラビ法典でした。ハムラビ法典の制定は、現在ではいち早い法の体系化として評価されており、その意味では法治国家の建設を目指した王でもあります。
 銅像は一枚布の装束をまとった立像で、左手を胸に添え、右手は指をまっすぐにのばして立てているという緊張感のある姿です。長い髭と皺が刻まれた顔から老齢を思わせますが、一方で聖書にある「目には目を」の語源となったといわれる復讐法の制定者であることを想起させる厳格さも感じさせます。

ユスティニアヌス (483~565)

 ユスティニアヌスは、東ローマ帝国皇帝としてその版図拡大に尽力した人物です。出自に関わらず有能な人材を登用することや、危機に際して果断であることでも知られ、治世の過程で起きたニカの乱と呼ばれる暴動に際しても、子飼いの将軍に命じて情け容赦のない武力鎮圧を行っています。しかし、精力的に政務に励み「眠らない皇帝」とも呼ばれたユスティニアヌスの名を歴史に刻んだ最も有名な功績は、欧州近代国家の法律(主に民法)の基礎となり、現在もその精神が継承されているといわれる「ローマ法大全」の編纂を命じたことでしょう。これは古代ローマ時代からの雑多で未整理な法律を整備したもので、「ハムラビ法典」「ナポレオン法典」とともに世界3大法典とも呼ばれます。
 銅像は、モザイク画などでも描かれているローマ帝国皇帝の装束をまとった立像です。左手に「CODEX」と記された書を抱いていますが、CODEXは彙纂(いさん=同類のものを集める)を意味し、まさにローマ法大全を示しているようです。目を見開き、果断の皇帝らしく口元を固く締めたという印象の表情も見どころと言えるでしょう。

ガンジー (1869~1948)

 ガンジー(ガンディー)は、本名をモハンダス・カラムチャンド・ガンジーといい、インド独立の父として知られる宗教家・政治指導者です(経歴の詳細は荻窪の銅像を参照してください)。ガンジーは独立運動に際して、時に暴力的な行動にも結び付いた不服従運動を経て、非暴力運動に移行しました。しかし、実はインドでは長い宗教の歴史の中で度々非暴力の思想が現れており、大変な忍耐を必要とするこの運動に多くの民衆が参加して大きな広がりを見せるに至ったのは歴史的な下地が十分にあったためといわれます。またガンジーはイスラム教徒との理解にも尽力しますが、結果としてこの行動は実を結ばず(後にイスラム教徒が分離独立運動を起こし、パキスタンを建国)、さらにガンジーの命をも失わせる原因となりました。ヒンドゥー教原理主義者の凶弾に倒れたガンジーの最後の言葉は「おお、神よ」だったといわれます。
 像は、衣を纏って祈りを捧げる姿の立像です。胸の前で手を合わせた姿はもの静かで、公園内の他の像と比べても独特の静寂感を漂わせています。また、衣を纏った上半身のボリューム感と素足を出した脚部のスマートさのコントラストは見事で、静的な像ながらも、荻窪の歩行姿の像とはまた違った躍動感を味わせてくれます。見比べてみるのも面白いかもしれません。

達磨大師 (5世紀後半から6世紀前半)

 達磨大師(ボーディダルマ)は、インド南部に興隆した王国の第三王子として誕生し、のちに禅宗を中国に伝えた人物です。頭から衣を纏って座禅を組む姿が肖像画などに残されています。活躍した時期は五世紀末から六世紀初期にかけてで、当時の中国は魏晋南北朝(三国時代末期に天下統一を果たした晋の混乱・滅亡から北方民族の侵入を発端とする中小国家分立の時代)で、仏教の僧侶だった達磨はインドから中国南部に渡り、禅宗の開祖となりました。当時の中国は統一国家がない混乱状態だったため、布教は容易ではなかったようですが、達磨大師の教えは徐々に浸透します。こうして広まった禅宗(中国禅)ですが、中国では宋代をピークに衰退してしまいます。しかし鎌倉時代に日本に伝わった禅宗は独自の発展を遂げて存続しました。現在では海外でZEN=禅といえば主に日本の禅を指すそうです。日本で縁起物とされている置き物「ダルマ」の姿は、手足が萎えるほど座禅に没頭したという達磨大師の姿を模したものといわれます。
 銅像は、肖像画で知られる衣を頭から纏った姿で、座禅ではなく立ち姿です。豊かな髭と彫の深い表情は非常に印象的で、直立静止という静的な立ち姿と、木の杖を携えた右手で衣をたくし上げるという動的表現が絶妙なコントラストを見せています。

聖フランシス (1182~1226)

 イタリア・アッシジ出身のキリスト教・カトリック修道士で、12世紀末から13世紀初期にかけて活躍。中世イタリアを代表する宗教家であり、聖人(イタリアの守護聖人)として尊崇されており、神と人間の関係に自然との一体化の精神を持ち込むなど、柔軟な考え方で多くの賛同者を得た人物です。本名はジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネですが、織物商だった父親が取引相手のフランス贔屓だったこともあってフランチェスコ(またはフランシスコ。像の名称は聖フランシス)の名に改めたとされています。成長したフランチェスコは騎士を目指したものの戦争で負傷し、捕虜になるなど辛酸を経験して挫折してしまいます。その後は教会に奉仕するようになり、修道士として各地を巡回。後にローマ教皇から修道会であるフランシスコ会設立を許されて創設者となりました。同会は宣教活動に力を入れ、中央アジアを経て日本での布教も行い、日本の禁教と弾圧の中で殉教者も出しています。
 像は修道衣姿の立像です。フランチェスコの修道衣姿(染色も装飾も施さない地味なものでした)は肖像画に残されていますが、像は自然体で神と向き合おうとするかのような、やや動的な表現となっています。清貧を旨とした修道会運動の始まりとなった人物らしく、飾り気のない像です。

老子 (紀元前6世紀頃)

 古代中国の代表的な哲学者として、道教の草案に重きを成した人物といわれています。道教は、宇宙と人の世の根本を成す不滅の心理を得る道を目指し、その手段として不老不死の術を身につけて仙人になることを理想とする教えです。中国では、仏教、儒教と共に3大宗教の一つに数えられています。一説によれば、周王朝時代の宮廷官吏の出身といわれ、数々の預言を行ったとされていますが、現在では実在しない人物であるという説や、複数の人物のイメージをひとまとめにした象徴的な存在ではないかと見る説があり、道教では神格化されています。
 肖像画などでは達磨のような厳めしい風体で描かれることが多いようですが、哲学の庭の像はさながら宇宙の真理を求める求道者、という雰囲気の瞑目の立像です。大きくそそり立った頭部と長い髭、たっぷりとした法衣など、ボリューム感のある描写が独特で、円形の池を囲んで向かうあう5体の像の中でもかなり迫力を感じさせ、見応えがあります。

キリスト (紀元前4~28頃)

 イエス・キリストは、紀元前4年頃から紀元後28年頃の人物とされ、キリスト教の最初の宣教者といわれます。旧約聖書によれば、ヨセフと結婚したマリアがその婚姻前に聖霊により身ごもったのがイエスであるとされます。クリスマスは、その誕生日がキリスト教の記念日となって現在に至ったものですが、日本ではあまり宗教的な意義を意識した迎え方はされていません。自立してのちのイエスは神により多くの試練を与えられ、それを乗り越えて神の教えを広める宣教者となり、12人の弟子(使徒)とともに布教しますが、自らを神の子、あるいは救世主と称したためローマにより囚われ、磔刑に処せられました。しかしイエスの教えは弟子や信者により広められ、キリスト教隆盛の礎となりました。
 像は、いわゆる宗教画や教会の十字架などに見られるキリストの姿とはかなり印象が異なっています。髪と髭は、毛の質感をあえて抑えて表情と一体化したような表現になっており、独特です。貫頭の衣も含めて全体が滑らかな起伏の少ない描写でまとめられており、そのもの静かなたたずまいが印象的な像となっています。

釈迦 (紀元前463~紀元前383頃)

 紀元前460年代から380年代の人物で、仏教の開祖とされています。日本ではゴータマ・シッダールタの俗称でも知られています。その生涯には謎が多く、出生地も現在のインドとする説、ネパールとする説の2つがあります。元々は裕福な王族の出身でしたが、当時のインド周辺は騒乱や権力争いなどで世が乱れており、また物心ついてからの日々の暮らしの中で無常を感じること多く、30歳を目前にして恵まれた生活を捨てます。荒野に修行すすること数年、30代半ばで覚りをひらいて仏陀(覚りの境地に至った者)となったといわれます。その後、自ら覚りの道を人々に説く旅に出て、当時のインドを中心に布教活動を行い、80歳で没したといわれています。
 像は長い髪と髭を蓄えた法衣姿の立像で、日本で「お釈迦様」と呼ばれて親しまれている仏教像(座像)とはまったく異なり、またインド等で描かれた修行者的な肖像画とも異なる非常にスマートな印象の像になっています。人々に覚りの道を説く布教の旅の始まりの頃をイメージしたと思われ、表情にもどこか若々しさを感じさせます。

エクナトン (紀元前1362年~紀元前1333年頃)

 紀元前1300年代半ばの人物で、1353年から1336年(推定)にかけて古代エジプト王国の第18王朝のファラオ(王)として治世を担い、アマルナと呼ばれる宗教改革を断行したといわれています。日本では、有名なツタンカーメン王の父「アメンホテプ4世」といったほうが知っている方が多いかもしれません。エクナトンの名は、古代エジプトで信仰されていたアテン神の寵愛を受けた者を意味する「アク・エン・アテン」という呼び名がその元になっており、これは神との同一化、あるいは自身の神格化を意図した表現であったようです。それまで絶大な権限を持ち、政治にも干渉していた神官たちの力を抑え、王権と信仰を強固なものにした王でした。
 エクナトン像は他の像よりも小ぶりの子供のような身長比で、体躯にもかなりのデフォルメが見られます。このような特異な描写は、古代エジプトでアテン神信仰が隆盛を極めていた時期の壁画や像にも見られる特徴で、エジプト王家の装束と共に不思議な存在感を放っています。

アブラハム (生没年不詳)

 アブラハムは信仰の父ともいわれ、アラビア語ではイブラヒム、イブラヒーム。古ヘブライ語ではアブラムとも呼ばれます。最初に神への信仰を説いた人物であるといわれ、基本的な教えに神への信仰を掲げる三つの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の源流となったともいわれています。「ノアの箱舟」のエピソードでも知られる地表を覆い尽くす大洪水のあとで、神の祝福を受けた最初の預言者であるとされており、洪水から生き残った人類に救済と再びの繁栄をもたらし、神の名のもとに人々を導く役割を担ったといわれています。なおイスラム教を信じるアラブ圏では、アラブの民の始祖であるともされています。
 像は、地に伏して神に祈りを捧げる姿を描いており、体の形こそ判別できるものの全身が衣で覆われて顔も見ることはできません。これはイスラム教における礼拝の模様を描いているようで、偶像崇拝を禁じた教義に配慮してこのような描写としたようです。11体ある像の中でも、特に異色の像といえるでしょう。


犬屋敷の犬(中野駅前)

建立:1991年10月
 江戸時代は、日本が中世から近世へと向かう橋渡しのような時代で、世界的に見てもとりわけ平和な時代であったといわれています。それでも、徳川幕府の失政により庶民が迷惑を被ることもなかったわけではなく、特に第五代将軍綱吉が発した「生類憐みの令」とその余波はよく知られています。中野区には、この生類憐みの令に関係する銅像があります。といっても徳川綱吉の像ではありません。
 生類憐みの令に関しては、かつては悪法とされていましたが、現在では江戸時代の再考が進みつつあり、評価は変わりつつあります。とはいえ、当時の人々にとって犬を含む動物たちを過剰に保護する法律はやはり迷惑だったようで、特に専門の犬役人まで設けて保護した野良犬は増えすぎてトラブル続出。さずがに放置できなくなった幕府は、野良犬を集めて施設に収容する羽目に陥ります。こうして建設されたのが犬屋敷でした。
 犬屋敷は、現在の中野区役所を中心として、東京ドーム約20個分(最大拡張時)に相当する広大な土地に設けられていました。犬屋敷内には、「かこい=囲(犬囲い)」と呼ばれる区画が五つ設けられ、各区画には犬小屋のほか、餌場や、子犬のための養育専用の小屋など、多数の小屋や施設が設置されていたほか、屋敷内には犬専用の療養所もあって犬医者が常駐していました。最盛期約8万頭が暮らしたという犬屋敷は維持管理費用も膨大で、幕府の財政圧迫の要因の一つになったといわれます。
 今回紹介する銅像は、この犬屋敷の“主人”である犬たちです。 銅像は、中野区役所前に、「犬屋敷跡の碑」とともに置かれています。単体の像ではなく、立ち、吠え、子犬への授乳といった個々にポーズが異なる5頭で、犬囲いの中で暮らした犬たちのかつての姿をイメージしたものとなっています。現在は外来の犬種も増え、家庭で飼うのも当たり前ですが、その犬たちが人間より大事に扱われていた時代があったという事実に、思いを馳せてみるのも一興――人物像とはまた違った、銅像鑑賞の楽しみかもしれません。
 ちなみに現在、中野四丁目となっている一帯の旧名「囲町」は、犬囲いに由来する命名で、また中野三丁目の旧名である桃園の名は、八代将軍徳川吉宗が、かつて「五の囲」があった一帯に自身の鷹狩り場を設けるとともに、桃の木を植えて公園化したことに由来します。桃園は江戸の庶民にも開放され、花見などで賑わったと伝えられています。

哲学の庭