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霞ヶ関~日比谷

大隈重信

板垣退助

伊藤博文

陸奥宗光

ホセ・リサール博士

千代田区には、皇居とともに日本になくてはならない建築物があります。それは国会議事堂。日本政治の中枢であり、その中には近代政治萌芽の原動力となった政治家の銅像が置かれています。今回は、国会議事堂周辺の銅像を紹介しましょう。

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国会議事堂の銅像

 国会議事堂は、日本唯一の立法府(唯一の立法機関)であり国権の最高機関である国会が開会される建物です。東京都千代田区永田町にあることから、国会議員や国会そのものを指して「永田町」と呼ぶこともあります。
 議事堂建築の建策は明治14年(1881)の「国会開設の詔」と前後して出されていましたが、財政難などから実際の着工は大正9年(1920)にずれ込み、その後も関東大震災や二・二六事件といった国家の大事に遭遇。着工以来17年を経た昭和11年(1936)に竣工の日を迎えました。その間、仮議事堂での国会開会に甘んじてきた日本政治に、ついに内外に誇れるシンボルが誕生したのでした。
 デザインは一般公募も行われましたが、最終的にはデザインを大幅変更して決定。中央塔(車寄せと重量1トンの扉を持つ中央玄関と、その内部に中央広場がある)を真ん中にして右に参議院(完成時は貴族院の議場)、左に衆議院が配置された左右対称の建物(内部は地上三階建・地下一階。中央塔が四階建て)となりました。鉄筋・鉄骨コンクリート造りの強固な構造に御影石を装った石積み建築で、内部は大理石など多種多様な天然石材を使っています。完成当時は日本一高い建築物でした。
 今回紹介する銅像は、中央広間の四隅(正確には参議院・衆議院を結ぶ通路入口の両側)に置かれており、3か所に台座付き立像が置かれ、1か所は台座のみとなっています。なお、国会内は一般の見学が可能(見学ツアーもあります)ですが、見学の受付は10名以上となる場合、事前申し込みが必要となります。詳しくは国会議事堂・参議院のサイト衆議院のサイト等でお調べになるのがいいでしょう。

大隈重信 (1838~1922)

建立:建立:1938年
製作:朝倉文夫
 大隈重信は、明治・大正時代の政治家、思想家、教育者で、国会開設の必要性を早くから訴えていました(プロフィールは早稲田大学の銅像の項をご覧ください)。明治31年(1898)に板垣退助とともに憲政党を設立。それまでの薩長閥出身者就任の慣例を破って内閣総理大臣となり、日本初の政党内閣の首相となりました。幕末の延長ともいえる明治政府設立以来の政治の形に一区切りをつけ、日本独自の政党政治の出発点となったのです。国会議事堂の銅像のモデルとして選ばれたのも、こうした政治の変革の原動力となった業績によるものでしょう。
 銅像は、明治憲法発布50周年を記念して伊藤博文像、板垣退助像とともに製作されたもので、昭和13年(1938)の建立です。製作は日本の近代美術界を代表する彫刻家であった朝倉文夫・北村西望・建畠大夢が各1体を担当。彼らは当時「文展の三羽烏」と呼ばれ、その才を競っていただけにいずれの像も見ごたえがあります。三者三様の表現の競演も見どころといえるでしょう。

板垣退助 (1837~1919)

建立:1938年
原型製作:北村西望
 板垣退助は明治から大正前期にかけて活躍した政治家です。幕末の天保8年(1837)に土佐藩士(上士)であった乾家の子として誕生。後に倒幕運動に参加します。戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀を務め、その際に甲府を訪れたのを機に、自身が甲斐源氏の流れをくむ板垣家の後継であるとして板垣姓を名乗りました。幕府直轄であった甲州の民衆の支持を得るためであったともいわれています。
 明治新政府誕生により、西郷隆盛らとともに参与として政治の中枢に就任しますが、西郷とともに征韓論を唱えて下野。一時は政治に復帰したものの、すぐに辞職して自由民権運動をおこします。さらに明治14年の「国会開設の詔」を受け、自由党を結成して各地を遊説します。岐阜での遊説中に暴漢に襲われますが、その際放った「我死するとも自由は死せん」という言葉が、後に「板垣死すとも自由は死せず」という表現となって広く一般に知られることになりました。自由民権運動の旗振り役であったことから、爵位を拝受後も貴族院議員の立場は固辞したため、帝国議会に議席を持つことはありませんでした。しかし、帝国議会開設後は立憲自由党(自由党)を再建し、内務大臣として入閣も経験しました。政界引退後は機関紙『友愛』の発行などを手がけますが、大正8年に亡くなりました。

伊藤博文 (1841~1909)

建立:1938年
製作:建畠大夢
 伊藤博文は、明治時代の政治家です。幕末の天保12年(1841)に長州藩の農民の家系に生まれ、長じて吉田松陰の松下村塾に学んで倒幕運動に参加しました。最初は尊王攘夷派だったものの、外国留学を経て開国派に転じ、維新後は英語が得意なことから外交官僚を経て明治政府の要職を歴任するようになります。英語は伊藤博文の総理大臣就任にも大きな武器となりました。英語の外電が読めない人物に、脱亜入欧を目指す日本のリーダーは務まらない、というわけです。
 彼の業績として有名なものの1つに鉄道整備があります。殖産興業を唱えていた大隈重信との二人三脚で、品川・横浜間の鉄道開設に尽力しています。国会開設を目指し、憲法や政府の制度を学ぶために欧州を視察し、帰国後の明治18年には日本初の近代的な内閣制度を創設するなど、議会制民主主義の雛型を作ります。その初代内閣総理大臣レースで、華族出身で太政大臣だった「ライバル」の三條寛美を破る武器になったのは、前述のように欧州視察の経験と英語力でした。以後、4度の内閣総理大臣のほか、枢密院議長などの要職を務め、近代日本のリーダーとして舵取りを行い、特に日清・日露の2度の戦争を政府のトップとして経験。難しい政治運営をこなして国難を切り抜けました。しかし戦争の結果、日本が朝鮮半島や中国東北部に勢力を伸ばしたことが、新たな火種となります。伊藤自身が「早計な併合には反対」と唱えていた日韓併合が韓国国民を憤慨させ、結果的に「日本のトップ」であった伊藤博文がその恨みを一身に背負う形となりました。ロシアとの外交交渉のために訪れたハルビン駅で襲われた伊藤博文は、銃弾を浴びて亡くなります。その死は、国内外から惜しまれました。



伊藤博文 (1841~1909)

建立:1936年
製作:本山白雲
 国会議事堂にはもう一体、伊藤博文像があります。この銅像は立像で、議事堂参議院側の前庭にあります。 伊藤博文の多大なる功績を顕彰し、後世に遍く伝えようという思いから、春畝公追頌会(「春畝公」は伊藤博文の雅号)により建立され、貴族院に寄贈されました。
 中央広間の像よりもかなり大きく、本体は5メートル、台座も含めると11メートルあります。フロックコートの前を開いているなど、表現も異なっていて作者の個性の違いも興味深いものがあります。髭の表現の細かさや服装、表情の緻密な描き方など、大きな像ならではの見どころがあります。

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陸奥宗光 (1844~1897)

建立:1966年
製作:藤田文蔵
 陸奥宗光は、天保15年(1844)に紀州藩士の六男として誕生しました。青年時代は尊皇攘夷思想に心酔。やがて坂本龍馬ら志士との交流を深め、その一方で勝海舟とも親交して海軍操練所に入所しています。
 明治維新後は知事、県令など官職を務めますが、藩閥政治に憤慨して退職。政府転覆謀議を疑われて投獄されたりもしましたが、やがて幕末以来の知己であった伊藤博文の勧めなどもあって欧州留学に赴き、ここで近代的な政治・外交に関する知識を深めます。帰国後は外務省に出仕したのを皮切りに政府の閣僚を経験し、明治25年(1892)成立の第二次伊藤博文内閣で外務大臣として招かれると、幕末以来の不平等条約の撤廃に尽力します。また日清戦争開戦に際しては、肺結核を患いながらイギリスとの協調・ロシアの中立化を精力的に進め、外交手腕で日本の勝利を支えました。しかし対清勝利後、三国干渉などで対ロシア外交が困難になりつつある中、病状の悪化により亡くなりました。
 銅像は、外務省の敷地内(正面入り口の右側)にあります。敷地内に立ち入ることはできませんが、像は外から見ることができます。現在の像は二代目で、初代の像は日本が近代国家の道を歩む中で、外交に文字通り命をかけた陸奥宗光の業績を讃え、基金により明治40年(1907)に建立されました。この像は戦時中、金属供出により失われますが、昭和41年(1966)に没後70年を記念して再建されました。肺結核の症状に苦しみながら、その手腕を「カミソリ」と評されただけに、威厳と緊張感に満ちた容貌が目を引きます。この他、山口県にある日清講和記念館には、盟友である伊藤博文と並んだ胸像もあります。

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ホセ・リサール博士
  (1861~1896)

建立:1961年
 ホセ・リサールは、スペインの植民地であったフィリピンの独立に生涯をかけた独立運動の闘士です。彼は求学心に富み、技術や知識によりスペイン圧政下のフィリピン社会に貢献しようという意思が強かったようです。スペイン人からの蔑視の中で測量技術、医学などを学び、さらにスペインに渡り、医学を学んで医師免許を取得。他の欧州各国の大学でも学んで、なんと10カ国以上の言語を操るという語学の才を見せました。 
 帰国後、『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』『エル・フィリブステリスモ(反対者)』という2冊の著書を表しますが、これはフィリピン人の苦衷を世に知らしめると共に、独立運動に火をつけることになりました。ホセ・リサール本人は、急激な解放・独立運動ではなく、緩やかな地位向上や平等、生活改善を求めるという気持ちだったようですが、スペイン側は彼を危険人物とみなして逮捕・追放を行い、独立運動の機運が盛り上がると、ついに裁判にかけて銃殺刑を宣告します。国外退去などを条件とした助命提案も出されましたが、ホセ・リサールはこれを断りました。享年35歳。マニラ湾を望む彼が処刑された場所は、現在公園になっており、広場には24時間警衛される記念碑があり、公園は彼を偲ぶ人々で賑わっています。
 銅像は日比谷公園内にあります。木立にまぎれてわかりにくいかもしれませんが、帝国ホテルほぼ正面の道路沿いにあります。ホセ・リサールは1888年に来日しており、その際に当時日比谷公園内にあったホテルに宿泊したことに因み、東京都によって建立されました。銘板と凝った台座がしつらえられた胸像で、その端正な面立ちはフィリピン人の幸せを強く願って止まなかった信念を感じさせ印象的です。

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