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TOKYO銅像マップ

番外編4 小田原周辺

北条早雲

二宮金次郎

二宮尊徳翁

土肥實平

 番外編の第4弾は、東京を離れて神奈川県の小田原周辺を巡ります。小田原といえば、歴史群像の読者には「後北条氏の本拠地」という印象が強いかもしれません。後北条氏の祖となった北条早雲が大森氏から同地を奪取したのは1495年のこと。以後、後北条氏の勢力拡大に歩調を合わせるように、小田原は城下町として発展を続け、江戸時代には東海道の重要な宿場町として賑わいました。そんな小田原周辺には、同地所縁の人物の銅像が数多く建立されています。

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北条早雲 (~1519)

1990年4月建立
原型:石黒孫七
 北条早雲は、戦国時代初期の武将で、下剋上の時代の幕を開いた人物の一人として知られています。関東で「国獲り」を始めるまでの名は「伊勢新九郎盛時」とする説が主流ですが、生年は1432年や現在有力視されている1456年など、確定されてはいません。ただ、のちに早雲庵宋瑞と名乗ったことは明らかなものの、小田原一帯を支配し、北条氏の後裔を称したのは後継者である嫡子・氏綱の代からといわれています。北条早雲は通り名のような扱いといったほうがいいかもしれませんが、名乗りに関しての明確な史料がないため、本項では便宜的に「北条早雲」の名を用います。
 北条早雲の関東下向は、応仁の乱の混乱期に、姉(または妹)の嫁ぎ先である今川家を頼ったことが契機とされています。後に今川家の継嗣問題に関わるなど、伊勢家と今川家の関係は深く、伊豆の近くに所領を与えられたことが早雲の関東攻略の足掛かりになりました。早雲は、武将として知略と洞察力に長けるだけでなく、土着の豪族や農民らに対して、奉公の対価として所領を安堵するなど、行政面でも辣腕をふるいました。謎の部分が多い人物ですが、時代が生んだ英雄であったことは確かでしょう。
 銅像は、小田原駅西口前のロータリーにあります。小田原城へのアクセスは東口方面ですのでちょうど反対側になります。台座付きの騎馬像で、「北条早雲公」と題した銘板と、像の建立にあたって事業を推進し私財を寄せた人々の名を刻んだ銘板がはめ込まれています。1990年に小田原市の施政50周年を記念して建立されたもので、原型製作は彫刻家の石黒孫七、製作は竹中製作所が担当しました。早雲は、関東攻略開始時にはすでに老境にあったとされており、像も「早雲」を名乗ってからの入道姿をイメージしたもののようです。
 この像には、一風変わったところがあり、騎馬の足元に三頭の牛がいます。これは、小田原攻略の際に用いられたといわれる「火牛(かぎゅう)の計」を描いたことによります。現在では「火牛の計」は、源義仲による「倶利伽羅峠の合戦」のものも含め、具体的な根拠がない後世の創作ともいわれています。ですが、この像を「小田原発展の基礎を作った謎多き英雄」として観れば、史実からはやや離れますが、様々な想像を掻き立ててくれる銅像として楽しめるのではないでしょうか。
 

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▲報徳神社の像




▲小田原駅構内の像

二宮金次郎 (1787~1856)

(報徳二宮神社)1928年建立
(報徳二宮神社)製作:三代目慶寺丹長
(小田原駅)2001年10月20日建立
 二宮尊徳(にのみやたかのり)は、江戸後期の農政家で、一般的には通称の「二宮金治郎」や名を音で読んだ「にのみやそんとく」の名で知られています。天明7年(1787)、相模国足柄上郡栢山(現在の小田原市栢山)の農家の長男として誕生。当時の栢山周辺は河川の氾濫に悩まされており、金治郎の父も田畑を失うなどの被害を受けています。少年期に父母を相次いで失った金治郎は、伯父に引き取られますが、農作業の合間の寸暇を惜しんで勉学に励み、後に実家の農地の復旧に成功し、さらに武家奉公にも出て奉公先の財政再建にも尽力するなど、農・財政で力を発揮。天領であった真岡代官領や日光山領の経営に辣腕をふるいました。農業を基本とする領地経営の方策は、「報徳仕法」として江戸後期の重要な領地経営論とされ、経済と道徳の融和を基本とする独自の「報徳思想」とともに、後の農政や道徳教育に大きな影響を与えました。
 二宮金治郎像と題された像は、戦前には小学校に寄贈されるなどしたため、日本各地にあったようです。戦時中の金属供出などで失われたものも多いようですが、生誕地の小田原には、戦後の作も含め、今も数多くの像が建っています。二宮金治郎といえば、少年期の薪を担いで読書をしている姿が有名です。これは書籍(幸田露伴著の『二宮尊徳翁』)に描かれた挿絵が元といわれますが、それ以前から、洋の東西を問わず勤勉のイメージを描いた人物画は存在しており、そうしたものが参考にされたとも言われます。最初の立像は石像だったようです。 二宮金次郎関連の像は、大きく分けて少年時代と官吏として大成後の二つの系統があります。
 小田原城址内の報徳二宮神社には、明治27年(1894)建立の、薪を担いで読書をする姿を描いた立像と、老齢になった「二宮尊徳翁」の像(後述)があります。少年期の像は、社殿手前の鳥居の左傍らにあり、昭和3年(1928)に昭和天皇の即位御大礼記念として、冒険家であり、体験談をまとめたベストセラー『五大州探検記』の著者(当時の人気作家・押川春浪<おしかわしゅんろう>との共著)としても知られた中村直吉(なかむらなおきち)より寄進されました。彫金師・三代目慶寺丹長(けいじたんちょう)の手によるブロンズ像で、人物の身長はちょうど1メートルに造られています。これは、当時日本では長さの単位として新たにメートル法が導入されており、子供たちの目に触れることの多い金次郎像を等しく1メートルに揃えて作ることで、新たな単位に親しんでもらおうとする意図があったようです。手にした書籍に目線を落とし、勤勉さを窺わせる表情が印象的です。
 またJR東海道線の小田原駅構内にも、新しく建立された金次郎の像があります。これは平成15年(2003)に、小田原駅改築に際して新造されたもので、駅構内の通路東側「ペデストリアンデッキ」にあります。柱を背にした台座付きの立像で、定番とも言える、薪束を背に左手で書籍を持った像です。昭和初期の像との相違点としては、背負った薪が細い枝の束として描かれている点や、書籍に目を落とさず、しっかり前を見ている点などの特徴があります。顔もやや丸みを帯び、一見すると仏像のような柔和な印象の像です。

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二宮尊徳翁 (1787~1856)

2010年5月31日除幕
製作:南部祥雲
 小田原城址内の報徳二宮神社に、二宮金次郎像とともに置かれているのが、この『二宮尊徳翁』と題された像です。富山県出身の彫刻家・南部祥雲(なんぶしょううん)が手掛けた立像で、兵庫県西宮市報徳学園創立100周年記念として南部氏に制作依頼された10体のうちの1体です。右手に筆、左手に台帳を持った、官吏としての姿を描いており、財務・農政など多くの改革に手腕を発揮した「能吏」としての側面を強く感じさせる、シャープな造作の表情が印象的です。場所は、神社内の参道の最初の鳥居の傍らにあります。
 小田原市内にはほかにも多くの金次郎/尊徳の像があります。
 生家・記念館の近くには尊徳と名乗り行政官として活躍し始めて以降のものと思われる立像があります。座像も多く、善栄寺には伯父の家で夜学中に「油がもったいない」と言われ、自ら菜種を育てて油を採ったというエピソード(金次郎はのちに、菜種の栽培を奨励したりもしています)を基にしたと思われる、筆と書籍を手にした勉学中の座像があります。


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土肥實平(~1191)



建立:1981年4月5日
製造:亀貝 保
 土肥實平(どひさねひら、どいさねひら)は、平安末期から鎌倉初期にかけて、活躍した人物です。相模国の豪族であった中村氏の一族で、関東の有力武将でした。桓武平氏の一流の出身ですが、自身は源頼朝に従って数多くの合戦に従軍。武将としての活躍のほか、奉行職でも手腕を発揮しました。頼朝が挙兵した直後の苦しい時期を支え、「平氏打倒」の志を同じくする関東の武士を頼朝に取り次ぐなど勢力拡大に力を尽くし、頼朝の信頼が厚かったといわれます。生年は不詳ですが、没年は鎌倉幕府成立後の建久2年(1191)頃といわれています。
 銅像は、JR湯河原駅前にあります。土肥實平は、現在の湯河原町と、隣接する真鶴町の一帯を本領としていたといわれます。製作は湯河原在住の彫刻家・亀貝保で、郷土の英雄である土肥實平を顕彰し、後世に伝えることを目的に設立された「土肥会」の50周年を記念して昭和56年(1981)に建立されました。この年は、頼朝挙兵から約800年という節目の年でもありました。
 大鎧に身を包んだ立像で、傍らには良妻賢母として知られる妻(名は不詳)が座る夫婦像になっています。實平の妻は、平氏の追求を受けて苦境にあった頼朝に食料を届け、自ら連絡役を務めるなど夫に負けぬ働きを見せたといわれ、銅像もそうしたエピソードに基づいたものです。甲冑の描写も緻密で見応えがある像ですが、何よりも動乱の時代に心を合わせて源氏興隆に尽力した、二人の絆が伝わってくるかのような姿が印象的です。


源 義家 新田義貞 川崎平右衛門