戦国に生きた人物と近現代のヒーローを比較検討し、新たな価値観を構築する暴走コラム!
豊臣秀長 とよとみ ひでなが 1540~1591 小竹、小一郎。父親が異なるとも、同じとも言われるが、ともかく秀吉の弟。兄に従い、金銭面・実務面でこれを補佐しただけでなく、天下平定戦においてはいくつかの合戦で一軍を率い、兄の力を借りずにこれを成し遂げるという、武将としても卓抜した側面をみせている。存命中は豊臣政権の実質的大番頭で大きな権力をもったが、つい最近までその功績が表に出ることはなかった珍しい武将。兄と同様、正嫡に恵まれなかったことも一因か。(イラスト右、念の為) |
【その11】 豊臣秀長と藤澤武夫 |
藤澤武夫 ふじさわ たけお 1910~1988 11月10日、東京市小石川区(現、東京都文京区)生まれ。鉄鋼材の販売などを経て、1949年、共通の知人の紹介で本田宗一郎と出会い意気投合。本田技研工業株式会社の経営に常務取締役として参加する。実務面に辣腕を奮い、「本田工業・藤澤商会」とも称される絶妙な二人羽織で「世界のホンダ」を創りあげた。その関係は「主従」ではなく「強力な補佐役」であったが、そのわりには知名度が低い気がする。そのヒミツは…本文を読め!(イラスト右、念の為) |
ジ ャパニーズ・ドリームなるものが存在するならば、それは秀吉をおいて他にない。最下層から身ひとつで太閤にまで成り上がった男、その成功譚は華やかに歴史に刻まれている。しかし、光あるところに影がある。まばゆい光を放つスターの陰には、その活躍を黒子となって支えた名補佐役が存在するのだ。しかしその活躍は表には現われてこない。そう、光源が強ければ強いほど。秀長は秀吉の弟であり、兄の大胆な発想と行動を金銭面・実務面で支えた男である。最終的には大納言にまで昇り詰め、名実共に豊臣政権の大黒柱となった。 …が、ソレは本誌の読者向けの説明。歴史にさほど興味のない方々にとっては頭の上に「?」が三つ四つ出る程度の知名度にすぎず、彼がナニモノかを説明するには、まず秀吉の成り上がりバナシから話さねばならない。しかも秀長が裏方に徹していた初期の活躍に於いては、「秀吉がこういう活躍をした際に、あんなコトやこんなコトをした……と思われる弟」という、何とも頼りない語尾をオマケにつけなきゃいけないほど史料も乏しい。「大河ドラマであのヒトが演ってたよ!」って言おうとしても、やっぱり心もとないっていうか、印章薄いキャラ設定だったりしてね。 藤澤武夫という男がいた。本田宗一郎と共に「世界のホンダ」を創りあげた人物である。さて戦史・戦術ほどは、わが国のモータリゼーションに興味はない(…と思われる、いやそうじゃないかな? ええい、いっそそういうコトにしといてくれ!)歴群読者の皆さんはどれくらい彼の名をご存じだろうか? ホンダ車に乗っている…本誌の読者ではない…方々にしても、宗一郎さんは知っるけど武夫さんは知りません、っていうヒト、多いと思うんだよね。 |
「お金はないけど、要るだけ作ります」 創立間もない同社に参加して以来、その言葉通りに経営の一切をとり仕切り、一零細企業を「世界のホンダ」へ導いた藤澤。ざっくばらんで情熱的な宗一郎は天才的な発想力を持つ技術者で、社員に愛されるカリスマ性もあったが、副社長藤澤の協力がなければ「世界の」という冠詞がその社名に輝くことはなかったかもしれない。 金策に奔走し、時には自腹を切って設備を整え、不況下では労組とも直談判したこの実務家はまた、宗一郎に伝統あるマン島バイクレースへの挑戦を勧め、50CCオートバイ・スーパーカブ号の開発を促し、大胆にもその生産台数を国内の二輪総販売台数が月2万台の時代に月産3万台と設定、成し遂げた陰のリーダーでもあった。自らの行動に自信を持ち、手形や小切手を宗一郎名義ではなく「代表取締役/藤澤武夫」で切っていた彼は、秀長同様にもっと陽の目をみてよい。 しかし、藤沢は黒子に徹した。曰く、宗一郎というシンボルを作る為に。そしてそれが実現した曉には「宗一郎亡き後のリーダー育成の為」早々と宗一郎の引退をも決めた。彼はまた、その企業の未来をも見事に示したのである。 秀長は──秀吉を支え、シンボルとするまでは同様であったが、その早すぎる死によって、秀吉という「スター」の退き際を演出することは叶わなかった。秀吉の晩年と、余りにも脆すぎた豊臣政権の崩壊には、秀長の不在が大きく関わっていたことは間違いない。………………………すいませんオチはありません。 |