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戦国に生きた人物と近現代のヒーローを比較検討し、新たな価値観を構築する暴走コラム!

してやられたッ!!

武田信玄 たけだ しんげん

1521~1573

 甲斐守護武田信虎の嫡男。20歳の時父を追放し自立、以後信濃、飛騨、駿河と着実に版図を拡げる。軍事的手腕のみならず、治山、治水、交通網整備や分国法の制定など、領国経営にも非凡な才能を発揮、堅実な側面も併せ持つ。信長と足利義昭の対立の中、反織田陣営の旗頭として去就が注目されたが、信長との直接対決を目前にして陣中に没する。黒澤映画の影響も大きいのだろうが、それ以前より、日本史上で「影武者」といえばこの御仁。

激似戦国武将論 信長の独断 クラシックス・プラス

【その6】

武田信玄と
サダム・フセイン

我が「影」を見よ!

Saddãm Husayn al-Takriti
サダム・フセイン

1937年4月28日~2006年12月30日

 イラクのティクリート郊外、ウージャ村生まれ。20歳でバース党に入党、68年7月のクーデターに貢献して頭角を表わす。卓越した政治力を発揮しクルド人やシーア派を抑え大統領に就任。隣国イラン、クウェートと争い、91年の湾岸戦争では敗北を喫したが、政権を立て直した。2003年、アメリカ・イギリス連合軍に攻められて敗北、捕らえられて刑死した。政治活動における逮捕投獄、脱獄の経験から身辺警護には敏感で、複数の影武者がいたとか。

玄は好きだけど、フセインはちょっとね……。こういう日本人て多いはず。しかも信玄公には熱心な信奉者がおいでのご様子、「世界平和を脅かしたブッソウな独裁者と、我らが信玄公を一緒にするとは言語同断!」というお怒りもご尤も。だからこそ、今回のテーマはこの二人なのだ……。
 信玄は「日本史に名だたる名将」とされている。何故か? 強いリーダーシップと統率力、高い政治力をもって版図を拡大、内政にも尽力して領内を潤し、他国の脅威から領国を護ったからにほかならない。強く頼もしい領主……それは紛れもない事実であり、「語り伝えるべき地域の誇り」でもあるだろう。現在でも甲府の街が──商店街の垂れ幕、マンホールの蓋は言うに及ばず、小学生のランドセルから右翼の街宣車まで──武田氏の家紋・武田菱で彩られているのは当然のことなのかもしれない。
 しかしですよ? 信玄の旧領を一歩でも外れればそんな光景はまず見られない。自国の権益を守り拡張することが、一方で他国の利益を妨げ侵略することである以上、その版図に隣接する国々では、信玄は「この上なく迷惑で油断ならない存在」であり「恐るべき戦闘力と謀計を駆使する侵略者」でしかないからだ。領民が感じる頼もしさの分だけ武田菱ブランドが嫌われる……そんな場所もあったはずなのである。
 フセイン元大統領の話。任期中、彼の支持率は99.96%、しかもこれが湾岸戦争の敗北後、世界中がその失脚を信じて疑わない状況下での投票結果と知って2度ビックリ。
 無論、秘密警察による言論統制が関与した効果ではあるんだろうけど、逆境中の逆境を逆手にとって反対派を封じ込めた政治力は並大抵のモノではない。事実そんな状況下でさえ、バグダッドの街はには彼の肖像が溢れていたのだから。
 当然、信玄やフセインと敵対した信長やアメリカだって同様に「他国からは迷惑な存在」として、同様に煙たがられたハズ……そういう指摘もありましょう。ところが、この二つのグループには決定的な違いがあるんです。
 天下を掌握することに全ての労力を費やし、粛々と足場を固め、反則を犯しながらも信長とアメリカはとにかく世界を変革した。しかし信玄とフセインは──金、或いは石油という、その時代を牛耳得る資源に恵まれながら、隣国の「神がかり的指導者」との争いに時を浪費し、世界情勢のイニシアチブを握る絶好の機会を逸している。天下には近かったのかもしれない。が、直接国境を接しない敵に対して無警戒過ぎたという点からして、やはり大局観には欠けていたと言わざるを得ない。為に彼等は「地域ナショナリズムの大御所」として(しか)存在し得ないのである。今までも、そしてこれからも……。それが彼等の望んだ姿であるかどうかは本人達に尋ねるしかないが、自国の民に愛される道を選んだのならば潔い姿ではある。
──でも、「瀬田に旗立てろ」って言ってたよな、確か……。

【その6】初出/歴史群像Vol.39 (1999年夏→秋号)

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