戦国に生きた人物と近現代のヒーローを比較検討し、新たな価値観を構築する暴走コラム!
真田幸村 さなだ ゆきむら 1567~1616 信濃の戦国武将・真田昌幸の次男。名は信繁ともいうが実は不明。関ヶ原の合戦で徳川方についた長兄信幸と袂を分かち、父昌幸とともに三成方に属して徳川勢を翻弄、一躍名をあげる。豊家最後の守護神となるべく大坂の陣に参加、奮戦したが、総合力で東軍に及ばず討死した。 |
【その3】 真田幸村と |
戦艦「大和」 せんかんやまと 1941~1945(竣工より沈没まで) 日本の造船技術の粋を集めて極秘裏に建造された帝国海軍の巨大戦艦。大和という名すら極秘で、暗号名も数多くあった。 |
幸 村は人気者だ。その能力に疑問をはさむ者はあっても、嫌う人っていうのはまず見たコトがない。戦国武将にとって、実はコレ、大変に珍しいことなのである。いやマジで。秀吉への恩顧を忘れ、自らの保身の為に徳川に属し…そのうえ旧主の遺児秀頼を滅ぼすために大軍をもって大坂に押し寄せる東軍の大名たち……。個人としての戦いには大きな戦果をあげながら味方武将と連携のとれない不運、凡庸なる城将大野治長(オレじゃねーぞ)に効果的な作戦を採用されぬまま、数に押されいま一歩のところで家康に届かなかった無念、形勢不利の状況にも最期まで戦場に踏み留まった美学……。 幸村の人気はそんなところからきている…と思われる。「素晴らしい作戦」を提案し、「凡人」に退けられたかどうかは定かでないにしろ、真田丸の戦いや家康に迫った最終決戦などについては敵方にあった武将の多くがその活躍を賞賛しており、幸村がひとりの武将として非凡な力量をもっていたことは明らかなようだ。その上で、運命に翻弄されて能力を発揮出来ずに終わったもどかしさ、敗北を覚悟の上で戦いに臨む決意、という悲劇的要素が加われば、これは日本人の心の琴線に触れねー訳がない。理想的な「非運の名将」であり、ある意味では「日本人の美学」を象徴する存在なのかもしれない。 かく言うノブナガサンも、実はそういう「非運のヒーロー」みたいなモノには滅法弱かったりする。 |
だから読者の皆様方が目を輝かす「未だナマナマしい戦記物」は苦手なクセに、大和だけは妙に心魅かれたりもしている。 実戦配備を待つ間に時代遅れとなってしまった最高級のスペック、味方を失い、敗北覚悟で戦場に赴く心意気……。その最期が戦艦同士の一騎討ちではなく、数に頼んだ戦闘機や魚雷による撃沈と知った時など、本気で「アメリカ軍は卑怯だ!」などと憤慨したものである(当時6歳。イヤな子供だ)。 しかし、何が卑怯で何が卑怯でないか、どんな行動が美しく、また醜いか、という価値基準は、実は万国共通でない。ある国の国民性では『忠臣蔵』の感動のキモがどうしても理解出来ず、「大勢で予告もなく、寝込みを襲うのは卑怯である」と逆に不快感を表すという。TVの討論番組を例にあげるまでもなく、国民性によって行動の醜美を決定する価値観には違いがあり、共感出来る度合いもまた様々なのである。 時代を超えて愛され、「十勇士」や「宇宙戦艦」としても復活して、さらに知名度をあげた幸村と大和のヒロイズムは、言い換えればサムライの美学である。その人気の根底に、ニッポン人の国民性が関わっているとしたら、彼等は我々だからこそ、ここまで共感出来るヒーローだといえるのかもしれない。 あゝ ニッポン人で良かった。 (……そんなシメか(-"-;)!) |