戦国に生きた人物と近現代のヒーローを比較検討し、新たな価値観を構築する暴走コラム!
今川義元 いまがわ よしもと 1519~1560 足利御三家の名門・今川氏親の三男で駿・遠・三の大守。隣接する武田氏・北条氏を軍事面・外交面で封じ、三河の松平氏は併合。領国内には検地を実施し、分国法を定め、商業を発展させるなど施政政策においても非凡な才能を発揮した“強大なるサラブレッド”。弘治元(1560)年、大軍を率いて尾張へ侵入。緒戦を何の問題もなく完勝したが、途中桶狭間に於いて2000足らずの織田信長本隊と決戦におよび討死。その名は新喜劇とは無関係。 |
【その7】 今川義元とタイタニック号 |
TITANIC タイタニック号 1909.3.31~1912.4.15 英ハーランド・アンド・ウォルフ社が米ホワイトスターライン社の要請を受け、海洋国家イギリスの威信を賭けて建造した三姉妹船の二番船。全長268.9メートル、幅29.8メートル、総排水量4万5000tを誇る不沈の超豪華巨大客船。1912年4月10日、サウザンプトンからニューヨークに向け処女航海に出発したが、ニューヨークを目前にして氷山と接触、わずかな亀裂から浸水し沈没。1490名の犠牲者を出した。その名は神に楯突き滅ぼされたギリシャ神話のタイタン族に由来する |
古 今東西、義元ほど不運な人間ていうのもいないんじゃないだろうか? ていうか、色々探したのだが事実見つからなかった。だから今回のコラムは激似じゃないかもしんない。似てないようで結構似ている? いややっぱり似てないや、という解りにくい論旨であることをお断りしておきますね、すんまそん。旧時代の恩恵を最大限に享受し、かつ時代に則した統治体制をも創造した義元。隣接する強国を、ある時は知略で、ある時は力を以て、制し吸収した強剛なる名将──。戦馬鹿でも頭でっかちでもなく、彼は非常にバランスの良い戦国領主であったと言える。その義元が一説に2万5000の大軍を率い、「満を持して」尾張への進軍を開始した時、彼の討死と今川軍の壊滅を予想し得た者が果たしていただろうか? 確かに戦である以上、そこには敗北もあり得た。しかしそれはあくまでも「ゼロではない」という程度の可能性だった筈である。兵力も国力も、経験も器量も、少なくとも義元が信長より「確実に」劣る部分は何一つとして無かったのだから。 そして「不沈の超豪華巨大客船」タイタニック。北大西洋航路の覇権を賭けて建造されたこの船は、貴族趣味に彩られただけの「バブリーな船」ではなかった。当時、安全この上ない航路を航行する定期便であったにも関わらず、安全性と快適性には格別の考慮が為されている。万が一の衝突事故を想定し新たに設計された分割構造の船倉は通常の(船舶同士の)衝突事故には有効であったし、その他の装備についても当時の安全基準は充分に満たしていたらしい。その上で、豪華で、巨大だったのだ。 |
だが、義元は首級を挙げられ、今川家は壊滅した。タイタニックはあっけなく沈没し、海難史上に残る犠牲者を生んだ。旧時代最後の巨星のゴール直前、急転直下の破滅。彼らは彼らにはあり得ない最期を迎えたばかりに近年までその危機管理能力を疑われ、驕りと油断の象徴であるかの如き不当な扱いを受けることになった。 それは「何故?」という問いに対する回答をその装備や構造から導き出す事が出来ないがために、メンタルな部分に過剰に追及が及んだ、と言い換えられるのかもしれない。 なるほど似てる? いや違うやん。義元をよく見るよろし。彼は一般的に、肥満で胴長で短足で馬にも乗れず、その上公家かぶれでお歯黒で置き眉、「おじゃる言葉」まで使うキモい中年…というイメージが出来上がっているではないか。どこに書いてあるんだそんなコト? 要するに義元は「若き革命児」信長が表舞台に颯爽と登場する場面で、倒されるに相応しい「醜いオヤジ」に仕立てられてしまっているのだ。そしてそのイメージは、信長と義元の人気が何かの拍子に逆転でもしない限り、未来永劫払拭されることはないだろう。てコトはやっぱり未来永劫、ない。……タイタニックは悲劇として語られているが、だから義元はこれからもずっとそんなだ。正々堂々戦い、敗れた名将であるにもかかわらず。 ………………という訳で、如何でしょうか? キャメロン監督。 |