戦国に生きた人物と近現代のヒーローを比較検討し、新たな価値観を構築する暴走コラム!
石田三成 いしだ みつなり 1560~1600 生家が純然たる武士であったかは不明。幼少の頃より秀吉の子飼いとして仕え、次第にその懐刀として頭角を現した。政治面・兵站面で才能を発揮し、遂には吏料として豊臣政権における実務面のトップに君臨するに至ったが、同様に秀吉子飼いであった加藤清正ら、いわゆる「武断派」とはソリが合わず、朝鮮出兵を期に対立が激化、秀吉・前田利家という後ろ楯を失った後は政権内で孤立した。最後まで豊臣家に尽くしたが、関ヶ原の合戦で敗軍の将となり刑死。 |
【その5】 石田三成と |
Philippe Troussier フィリップ トルシエ 1955~ 元サッカー日本代表監督 3月21日、6人兄弟の長男としてパリに生まれる。パリ交通公団に就職後、アマチュアクラブを経て仏2部リーグの選手となる。現役引退後は指導者としてコートジボワール、ナイジェリア、ブルキナファソ等の代表監督を歴任、98年に日本代表監督に就任した後はアジアカップ優勝を含む数々の栄光をもたらすが、日本サッカー協会とは多くの軋轢を生んだ。上昇指向が強くスポーツ学にも熱心な「熱きインテリ」。選手に対しても厳しい管理主義で接した。今、何してるんだっけ? |
ト ルシエが好きだった。 熱いボディーアクションが好きだった。エキセントリックにマスコミと対峙するゆとりの無さが好きだった。…勝てて良かった。プレイヤーとしての華々しい経歴を持たず、そのうえスポーツ学にも傾倒していたトルシエは、それ故に指導者として「カリスマ的な」扱いを受ける事が出来ず、言動の全てに日本サッカー界やマスコミからの横槍を入れられ続けた。 「全てのクラスの日本代表監督を引き受け、効率的な指導と登用を行う」「次代の育成を見据え抜本的な世代交代を果たす」「日本人のメンタリティーとフィジカルの特徴を直視し、スタープレイヤーに依存せず総合力で勝つチームを構築する」…トルシエの理念は夢見がちなサッカー人達にとってあまりにも退屈だったうえ、論理的だが融通のきかない性格も攻撃目標には絶好だったのだろう。「子供たち」と呼ぶ彼のチームが、そして彼が抜擢した稲本ら新メンバーの活躍が評価される事はあっても、それがトルシエ本人の評価と結びつく事は稀であった。彼自身の資質が取り沙汰されたのは「日本惨敗」の時だけだったと言ってよい。それどころか、目出たくW杯ベスト16入りを果たしたにもかかわらず、彼の遺産――「フラット3」戦術――は封印されてしまった。彼が抜擢した選手すら、イメージ刷新のため代表落ちするのでは? という噂が飛んだほどである。トルシエの功績は抹消されねばならなかったのだろう。勿体ねえ。下敷きくらいにはなろうものに。 |
思えば三成という武将もそうしたキャラクターであった。その文官統治型の政治体制やシステマティックな戦線構想は、後方支援に重点を置いた「来たるべき時代」に則したものであったにもかかわらず、体育会系・戦馬鹿族からは不興をかった。「そんなトコをいじくりまわしてイミあるの?」 前線(フォワード)に弾丸(タマ)を効率的に供給すべく構築されたシステムが「醍醐味に欠ける」と疎んじられた背景にあったものは、ひとえに「実績の無いヤローにデカい顔されるのはムシが好かん!」という、実にみみっちい嫉妬心ではなかったか。信長率いた織田軍の方が、より没個性的で見せ場の少ない機構であった事を考えると、三成がああまで酷評されたのは理不尽としか言いようがない。まあね、永い友人であるところの大谷吉継にまでこんこんと諭されるくらいだから、とっつきにくさは折り紙つきなんだろうけど。 日本代表ジャージーを買ったひとりとして、下らんやっかみなんぞで代表チームのレベルが下がらない事を願うのみでした。間違っても「某チェアマンと加藤清正」とか「元某国会議員と福島正則」とかがこのコラムに載らないようにと。奇跡的に予選までは勝ち進めたから良しとしたけどね。 指揮官は孤独だ、というけれど、本当に孤立無援だったトルシエ殿。三成と同じように、国民は少なからず、あなたを支持しましたよ。ありがとう。そして、 au revoir ! |