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記念艦「三笠」

本邦初!「三笠」ヴァーチャル・ツアーへようこそ

戦艦「三笠」は、日本海軍が大国ロシアのバルチック艦隊に勝利した日本海海戦(1905年5月27、28日)で連合艦隊旗艦を務めた、当時の最新鋭艦です。現在は記念艦として神奈川県横須賀市の三笠公園に保存されています。「三笠」は、イギリスの「ヴィクトリー」、アメリカの「コンスティチューション」とともに世界三大記念艦に数えられる貴重な展示軍艦です。ぜひ一度、訪れてみてはいかがでしょうか。
このコーナーでは、戦艦「三笠」をパノラマ画像で楽しめるVR、スチル画像、動画でお楽しみいただけます。
VRとは

VRは、QuickTimeVRというソフトウエアを利用した、風景などの画像を360度全周パノラマ展開(被写体によります)するコンテンツです。左上のコントロールボックスで回転やズームイン、ズームアウトができます。画面にカーソルを当て、左クリックしたまま動かしても画像を任意に旋回させることができます。
※VRの再生にはFlashプレイヤーが必要です。ご使用のパソコンにインストールされていない場合は、adobe社よりダウンロードしてください。
※通信速度が遅い場合、読み込みに時間がかかる場合があります。

① 艦橋上部(コンパスデッキ)

 艦橋上部(コンパスデッキ)

② 右舷信号探照灯(前艦橋)

右舷信号探照灯(前艦橋)

③ 前部司令塔内部

前部司令塔内部

④ 40口径30センチ主砲

40口径30センチ主砲

⑤ 前部主砲塔

前部主砲塔

⑥ 40口径8センチ速射砲

40口径8センチ速射砲

⑦ 左舷ボートデッキ

左舷ボートデッキ

⑧ 左舷副砲・側砲外観

左舷福砲・側砲外観

⑨ 後部艦橋

右舷旗流信号所(後艦橋)

⑩ 艦橋上部(後艦橋)

 艦橋上部(後艦橋)

⑪ 後甲板最後部

後甲板最後部

⑫ 中央ホール

中央ホール

⑬ 長官公室

長官公室

⑭ 司令長官居室

司令長官居室

⑮ スタンウォーク

スタンウォーク

⑯ スタンウォーク司令長官居室口

スタンウォーク司令長官居室口

⑰ 艦尾外観

艦尾外観

⑱ 前甲板主砲前

前甲板主砲前

⑲ 甲板最前部

甲板最前部

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三笠のプロフィール

<誕生~記念艦となるまで>

1900年(明治33年)「三笠」の進水

1926年(大正15年)三笠保存記念式典の模様

 戦艦「三笠」は、日本帝国海軍の戦艦です。日清戦争後、日本に対する脅威が切迫していた帝政ロシア海軍に対抗することは急務であり、時の海軍大臣・山本権兵衛が主導した「六・六艦隊計画(戦艦6隻+装甲巡洋艦6隻)」により建造されました。
 かくして「三笠」は敷島型戦艦の4番艦として、1889年に帝国海軍からイギリスのヴィッカース社に発注され、1899年にバロー・イン・ファーネス造船所で起工、1900年に進水しました。当時の日本は、軍艦の建造に関しては海外に学ぶべきことが多くあり、建艦技術先進国のイギリス(のヴィッカース社)に発注することで最新の技術を学ぶことも目的としていました。ヴィッカース社としても、新たに開発した技術を海外からの受注艦に実装して試すことができるというメリットがありました。
 「三笠」は122メートルの船体の前後に旋回式の連装砲塔を各1基備え、舷側にずらりと副砲を並べています。このスタイルは、当時の軍艦としてはスタンダードなものですが、艦橋や居住部、火砲の配置に無理がなく、フランス式建造技術を導入したロシア戦艦と比較して先進的でした。均整が取れたその容姿はイギリス国民からも絶賛されたといいます。
 かくして「三笠」は、艤装を終えた後、1902年に日本海軍に引き渡され、1903年から連合艦隊の旗艦となりました。連合艦隊司令長官に東郷平八郎が就任したのは、日露開戦が間近となった190312月のことでした。開戦後の1904年8月、ロシアの旅順艦隊と対決した黄海海戦で初めて本格的な砲火の洗礼を受け、後方から多数の砲弾を浴びています。
 そして1905年5月27、28日の両日に行われたロシア帝国海軍バルト海艦隊(バルチック艦隊)との戦いにおいて、「トーゴー・ターン(敵前大反転、T字戦法)」の名とともに世界海戦史に残る大勝利の主役となったのです。
 しかしその後の「三笠」は、不運続きでした。まず日露戦争直後に、弾火薬庫の爆発事故で佐世保港内に沈没着底。1908年には復帰してシベリア出兵に参加したものの、1921年に一等海防艦に類別変更された直後に座礁し、40日近くをドックで過ごす羽目に。さらに、世界的な海軍軍縮の波にも洗われて廃艦が決定。それだけでも踏んだり蹴ったりなのに、1923年の関東大震災で船体に損傷を受けたため、ついに除籍となってしまいます。しかし、栄光ある「三笠」を記念艦として保存しようという運動が起こり、保存が決定。横須賀の白浜海岸(現在位置)に固定され、記念艦となったのでした。

<復元~日本唯一の展示軍艦>



 ところが、第2次大戦敗戦の結果、記念館「三笠」を新たな不運が襲います。まずソ連が日本海海戦惨敗の意趣返しとばかりに廃棄を要求。アメリカ軍は、艦を接収して「キャバレー・トーゴー」として娯楽施設に利用(一説にはソ連の要求を「米軍の施設である」としてはねつけるためとも)しました。しかも船体からは金属や木材が剥ぎ取られ、無残な姿に成り果ててしまったのです。
 そんな「三笠」に、意外なところから救いの手が差し伸べられました。「三笠」の故郷、イギリスの造船所近くで貴金属商を営んでいたイギリス人が、「三笠」の惨状に憤慨して新聞に投稿。この記事に触発された外国人たちにより徐々に復元の気運が盛り上がり、ついにアメリカ海軍のニミッツ元帥までもが立ち上がり、日本人を鼓舞します。ニミッツといえば、第2次大戦中は「三笠」の後輩にあたる日本海軍艦艇を散々に叩いたアメリカ海軍屈指の名提督。しかしニミッツは、ただ復元を訴えたのみならず、アメリカ海軍関係者に復元への協力を働きかけ、後には自ら執筆した著作の印税の一部も復元・保存の資金として提供したといわれています。
 戦艦「三笠」の名は、日本海海戦の衝撃とともに世界の海軍軍人の胸に深く刻み込まれていました。また、イギリス人にとっては、自分の国で造られた戦艦が歴史に名を残す活躍をしたことに、我がことのような誇りを抱いていた人々も多かったといいます。まず外国人から復元の声が上がったのは、外国人の“MIKASA LOVE”の気持ちが我々日本人が思う以上に大きなものであった現れでしょう。
 こうした声に刺激され、やがて日本人自ら保存運動を起こします。その結果、損傷部分を補修して往時の姿を取り戻した「三笠」は、再び記念艦「三笠」として復活したのです。日本は明治時代に近代海軍を興して以降、多くの軍艦を建造してきましたが、第2次大戦後、生き残りの艦艇の大半がスクラップにされ、今となっては「三笠」が唯一の現存軍艦です。
 艦内には、軍艦の模型や海軍の制服、装備、日露戦争関連の展示のほか、上映施設も設けられ、日本が歩んできた歴史の1ページを今に伝えています。休日には多くの人々でにぎわう「三笠」ですが、平日にも地元の人々が絶えることなく訪れています。

VR 制作=(株)プラズマ
協力=(財)三笠保存会
記念館「三笠」公式ホームページ

① 艦橋上部(コンパスデッキ) ② 右舷信号探照灯(前艦橋) ③ 前部司令塔内部 ④ 40口径30センチ主砲 ⑤ 前部主砲塔 ⑥ 40口径8センチ速射砲 ⑦ 左舷ボートデッキ ⑧ 左舷副砲・側砲外観 ⑨ 後部艦橋 ⑩ 艦橋上部(後艦橋) ⑪ 後甲板最後部 ⑫ 中央ホール ⑬ 長官公室 ⑭ 司令長官居室 ⑮ スタンウォーク ⑯ スタンウォーク司令長官居室口 ⑰ 艦尾外観 ⑱ 前甲板主砲前 ⑲ 甲板最前部