明治後期、時の鉄道院総裁・後藤新平は、民間資本による鉄道事業促進を図り、1910年(明治43)に軽便鉄道法、翌1911年(明治44)に軽便鉄道補助法を相次いで公布。民間経営による鉄道事業に対して政府が補助を行い、国営による主要鉄道の建設と並んで鉄道網の充実を目指した。これが全国的な軽便鉄道ブームに火を付け、各地に多くの軽便鉄道が建設されることとなる。
そんな時代の流れの中で草軽電鉄は始動した(草軽電鉄の歴史は、年表を参照のこと)。会社創立の目的は観光客を運ぶスイスの登山鉄道に着想を得て、高原の避暑地へ、また草津の温泉へ、多くの旅客を運びたいというものだった。その志は高く、1912年(明治45)2月に提出された草津軽便鉄道株式会社(※)発起人一同の「創立の趣旨」の中には、「本鉄道は、一面草津その他沿線の旅客を目的とするとともに、草津方面に出入りする物資及び長野原・嬬恋・吾妻牧場附近より積出す木材・薪炭・その他貨物輸送のため」「この地方の発展に資する所あらんとする」と書かれている。(※当時は草津興業株式会社)
始発駅、運行ルートなど様々な問題が山積みしていたが、1912年(大正元年)10月に測量に着手。翌年11月、新軽井沢駅で起工式が行われ、建設工事が着工された。建設費用をできるだけ抑えようとしたため、谷を巡る急曲線やスイッチバックする場所が幾つも存在し、橋なども極力少なく、山岳地帯を走るにも関わらず沿線にトンネルはなかった。山間に曲線を描いて走る軽便鉄道は、まるで遊園地のミニ電車のようで、観光客には嬉しい鉄道だったが、すぐに脱線し立ち往生することも多かったという。第一期工事の小瀬温泉までが開通したのは1915年(大正4)のこと。その年の7月に9.9kmの営業が開始された。
当初運行したのは、ドイツ・アーサーコッペル社製の蒸気機関車。これは品川駅の拡張工事に使用されたもので、時速はわずか15kmだった。この年、軽井沢から小瀬方面への避暑客の往復は、8月だけで8063人。予想以上に多い旅客数だったが、貨物便の売り上げが伸びず、「本期営業は収支相償わず」と、翌年の株主総会で報告されている。
★帽章(左)と書記補以上の草軽社員が襟に付けたバッジ
★沿線の勾配の度合いや走行時間などが記された「運転基準図」
1919年(大正8)には嬬恋までの路線が開通し、草津への湯治利用者が激増。この波に乗って1924年(大正13)に会社は電化に踏みきり、社名を草津電気鉄道に改める。そして1926年(大正15)には、とうとう念願の新軽井沢~草津温泉間の路線が全線開通した。
電気機関車の時代、主役として登場したのが「カブト虫」の愛称で親しまれた「デキ12形」。これはアメリカのジェフリー社製で、東京電灯社が建設用に使用したものを譲り受けたものだ。背の高いパンタグラフとL字形の車体に特徴を持ち、トコトコと走る姿は多くの人々に愛された。自重が軽く安定性に欠けたため、左右に1トンのマスバランス、前後に誘導輪と呼ばれる車輪を付けるなど改良を施されたが、車輪が小さいため坂の多い軌道上ではスリップや脱線も多く、とくに凍結時には運転が難しい機関車だったという。
全線開通後、会社は「四千万尺高原の遊覧列車」をキャッチフレーズに、春はツツジ、秋は紅葉、冬はスキーと宣伝して、観光客の誘致に努めた。1927年(昭和3)にラジオで「草津節」が流され草津温泉が全国的に有名になると、草軽電鉄も大いに賑わいをみせる。時を同じくして昭和3年には北軽井沢に法政大学村、昭和9年には千ヶ滝別荘地が開発され、旅客輸送も増大した。貨物運送でも吾妻地方の発電所の建築資材運搬や白根山から産出される硫黄の輸送を一手に引き受け、昭和初期に日本を襲った大不況も難なく乗り越えることができた。今でも沿線跡を歩くと急カーブの地点で、当時運ばれた硫黄のかけらを見つけられる。
活気にあふれた時代には、「しらかば」や「あさま」の名で知られるサマーカーも運行していた。この客車は浅間高原の涼風を満喫してもらおうと、貨車を改造して造られたものだ。「しらかば」はその名の通りシラカバの木の柱をつけた納涼列車で、夏の草軽電鉄の風物詩でもあった。
1931年(昭和6)の満州事変に始まり、時代は戦争の暗い雰囲気へと流れつつあった。湯治客や避暑客を運んだ草軽電鉄も多くの出征兵士を見送るようになっていったが、硫黄の運搬などを手掛けていたため、戦時中もフル稼働の運行だった。
終戦とともに進駐軍が軽井沢にも訪れるようになる。万平ホテルや三笠ホテルなどの有名ホテルは接収されたが、草軽電鉄は昔のままに素朴な姿を保って運行し続けた。一説には、まるでオモチャのような前近代的鉄道だったため、視察にきたGHQの幹部が怖くて乗れなかったからだとも言われている。
終戦直後の1946年(昭和21)に、草軽電鉄はピークの46万人という乗客を記録した。しかし、皮肉にもその年の4月に国鉄長野原線が旅客営業を開始。乗客は安くて早い国鉄に流れ、徐々に減少し始める。また道路の整備などにより発達したバス路線も、乗客を奪われる原因となった。1949年(昭和24)のキティ台風、翌年のヘリン台風で吾妻川橋梁が流失するなど、甚大な被害がこの状況に追い打ちをかけた。
1954年(昭和29)には地方鉄道軌道整備法の認定を受け、補助金の交付により存続することができたが、1959年(昭和34)の第7号台風による再度の吾妻川橋梁流失が決定的なダメージとなってしまった。周辺住民、地元自治体の存続運動もあったが、1960年(昭和35)の乗客数は、全盛期の約8分の1の5万6000人に激減。惜しまれながらも昭和35年に新軽井沢~上州三原間が、そして翌年には草津温泉までの区間も廃線が決定した。
こうして1962年(昭和37)1月31日に、草軽電鉄は47年間の歴史に終焉を迎えることとなった。最終列車運行の当日は、前夜からの雪が1mにも達し、立ち往生の連続。厳冬期の運行ということもあり、乗りおさめの乗客もまばらという寂しい最後だったとか。現在、その路線跡はほとんどが鬱蒼とした自然の中に埋もれ、道路として活用されている部分も少ない。この路線跡を利用して、「ゆりかもめ」のような新交通システムで軽井沢と草津を結べば、多くの観光客で賑わうと思うのだが、草軽電鉄の廃線は残念でならない。