長野新幹線の開通により、軽井沢駅周辺は大きく変貌している。草軽電鉄が走っていたころの痕跡は、ほとんど発見することができない。現在では、ここから草津方面へ向けて電車が走っていたことなど、知る人も少ないであろう。廃止されてから50年あまり、地元の人に話を聞いても、乗車経験の記憶を持つ人は60歳以上になってしまっているから、無理からぬ話である。
軽井沢駅の北口を出ると旧軽井沢へと向かう新道の向こうに、雄大な浅間山と離山を望むことができる。歩道橋の右手の階段を下りたところにある土産物店の場所が新軽井沢駅のあったところだ。2階には草軽電鉄の事業を引き継ぎ、バス路線の運行を行っている草軽交通の本社がある。建物裏手のホームなどがあった場所は、北軽井沢方面へ向かうバスターミナルだったが、現在はほとんどのバスが駅前から発車するため寂れた雰囲気だ。電車はここから矢ヶ崎公園西側の道を直進し、途中から草軽交通の整備工場の敷地を斜めに突き抜けるように北上していた。旧軽井沢駅までは、新道と並行するように走っていたのだが、その痕跡をたどることは難しくなっている。
あまり知られていないことだが、整備工場にある資材置き場は、新軽井沢駅のホームの屋根を移築したもの。高さは低くなり、後から壁なども造られているが、当時の面影を偲ぶことが出来る。また、資材置き場の隣には、ほとんど崩壊寸前だが、コワフ100形104号が倉庫として残されている。残念なことだが、どちらも会社の敷地内にあるため、許可なく見学をすることはできない。
軽井沢駅横には昔懐かしい木造の旧軽井沢駅舎が移築保存されている。中には草軽電鉄に関する展示コーナーがあるほか、皇族の方々が軽井沢を訪れた際に利用した2階の貴賓室も公開されている。草軽電鉄ファンにとっての必見は、記念館前に展示されているデキ12形の保存車両。だれでも自由に見学が可能で、運転室などは、やっと人間が乗り込むことができる狭さでびっくりする。いかに可愛らしい電車であったかを実感することができるだろう。
● デキ12形13電気機関車
1920年(大正9)にアメリカのジェフリー社で製造された電気機関車。ハンドブレーキ常用、非常用電気ブレーキ付きという鉱山用のトロッコ電車で、東京電燈が発電所建設用として輸入したものを譲り受け改造した。運転室と前後に誘導輪と呼ばれる従輪を設置してL字形に改造、集電装置を長く延びたトロリーポールから背の高いパンタグラフに交換している。パンタグラフからはロープが垂れ下がり、これを引いたり離したりすることによって、架線からの電流を受けたり切ったりしていた。改造の設計・製作は東京佐野電気工業所で行われた。12号から24号まであり、老朽化により廃車となった14号を除き廃線時まで使用された。この他、21号を凸形に改造したちょっとモダンな形状のデキ50形がある。保存車両は廃線の際に最終電車として使われたもの。
● コワフ100形104号
|
|
(左)整備工場の敷地内に物置として使用されているコワフ100形の車体
(右)コワフ100形104号の内部。ほとんど壊れる寸前で復元は不可能と思われる。あと何年もつのだろうかという状態だ。
|
7トン積みで有蓋のボギー緩急車。自重は6.1トン、1942年(昭和17)に日本鉄道自動車で製造されたものだ。荷物室のほかに、狭いながらも車掌室が備え付けてあった。100号~114号まで製造されたが、そのうち6両は屋根のないホト110形に改造されている。
新幹線開通により取り壊された旧軽井沢駅舎を、往時の姿そのままに移築してある。1階の展示コーナーには、草軽電鉄をはじめ碓氷峠を走った信越本線関連の資料などを展示。皇室の方々が利用した2階の貴賓室も歴史記念室として再現され公開されている。一部の建具やカーテンボックスなどは、取り壊し前に保管してあったものを補修して再使用。ほぼ昔のままの姿を知ることができる。また、屋外には旧軽井沢駅のプラットホーム(旧上りホーム)も再現。峠のシェルパと呼ばれたEF63や10000形(EC40形)電気機関車も展示されている。