西洋建築1-海軍兵学校(海上自衛隊 第1術科学校・幹部候補生学校)

海軍兵学校  第1術科学校学生館  海軍兵学校大講堂  海軍兵学校教育参考館

海軍兵学校 (海上自衛隊 第1術科学校・幹部候補生学校)
施工:1893年
設計:ジョン・ダイアック(イギリス)
所在地:広島県江田島市江田島町国有無番地
構造:煉瓦造2階建
保存区分:なし

 海軍兵学校は日本海軍の将校育成を目的として設立され、明治9年(1876)から終戦まで存在しました。明治19年、呉に鎮守府を設置することが決まり、明治21年、東京・築地にあった海軍兵学校(建築:ジョン・ダイアック)が広島の江田島に移転しました。明治26年(1893)に旧海軍兵学校東生徒館として建築されました。1階は自習室、2階は寝室及び講堂として使用されていました。
 その規模は、イギリス・ダートマスの王立海軍兵学校、アメリカ・アナポリスの合衆国海軍兵学校に肩を並べるほどでした。戦後、米軍・英連邦軍が進駐して返還されたのは昭和31年で、その翌年には横須賀から海上自衛隊の第1術科学校が移転し、のちに幹部候補生学校も開校されました。
 大戦末期には各地で空襲を受けましたが、海軍兵学校は空襲の被害は受けませんでした。旧海軍兵学校生徒館をはじめ、大講堂や教育参考館、水交館、高松宮記念館(旧高松宮邸)などの歴史的建造物が今も残っています。現在は「海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校」と名称を変えました。
 この建物は戦後3回の改修が行われていますが、平成14年(2002)から2年間かけた大修理で創建当初の美しさを取り戻しました。現在は海上自衛隊幹部候補生学校の庁舎として使用されています。
 設計者のジョン・ダイアック(不詳~1900)は、明治3年(1870)、明治政府に登用されて、エドモンド・モレル建築師長の下で建築副役として、新橋~横浜間の測量に従事した人物です。この測量の第一杭はダイアックによって打ち込まれました。その跡には鉄道創設起点として現在は0哩標識が建てられています。その後、神戸~大阪~京都間の測量や工事を担当し退職したあと、海軍兵学校の設計に携わっていますが、詳細は不明です。1900年に72歳で死去、現在は横浜外人墓地に眠っています。 

通称「赤レンガ」と呼ばれる建物の外壁には、惜しげもなく煉瓦が使用されています。この煉瓦はイギリスから大変高価で良質なものが輸入され、建築当時から120年以上経ても色褪せていません。煉瓦の積み方はイギリス積みというぜいたくな積み方をしています。(一部、広島県産のレンガ)

旧生徒館の正面玄関上には海上自衛隊の桜と錨の紋章が飾られていますが、当時は菊の御紋章が掲げられていました。玄関の床板には、1909年に除籍された軍艦「金剛」の甲板のチーク材が使用されています。

(左)100メートル以上ある開放式の廊下。右側には海軍士官刀帯や制帽をかけられるスペースがあります。左側の中庭には軍歌『同期の桜』のモデルとされる桜が植えられています。
(上)かつて日本海軍戦艦 『陸奥』 の4番主砲として搭載されていた40センチ砲。昭和10年(1935)に海軍兵学校生徒の教材として移設されました。昭和5年(1930)、ロンドン条約が締結され、日本海軍は全主力艦の近代化を図りました。その改装の際に戦艦 『陸奥』 から撤去されました。)

第1術科学校学生館 (旧海軍兵学校第1西生徒館)
施工:1938年
設計:不詳
所在地:広島県江田島市江田島町国有無番地
構造/階層:鉄筋コンクリート造、4階建
保存区分:なし

兵学校西生徒館として昭和13年(1938)に建てられましたが、昭和31年、横須賀にあった術科学校が江田島に移転し、現在第1術科学校学生館として使用されています。もともとはクリーム色の3階立ての建物でしたが老朽化にともない、平成10年(1998)から全館改築し、真新しい現在の建物となりました。


一般見学は時間帯が決まっていますが、当日に受付をすれば無料で施設を見学することができます。見学コースは決められていますので、詳しくはホームページをご覧ください。
海上自衛隊第1術科学校

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