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THE WAR MOVIE セレクション

【第4回】 『ローマ帝国の滅亡』 (1964・アメリカ)

誓い

発売・販売元:東北新社
作品名:ローマ帝国の滅亡
監督:アンソニー・マン
価格:¥2,625(税込)好評発売中

 大昔の戦争に興味を持ったとき、恰好のイメージを提供してくれるのがスペクタクル史劇だ。制作費の高騰や、テレビの普及に押されて作られなくなったが、昨今ではCG技術の発達で再び見かけるようになってきた。ヒット作『グラディエーター』で再現された、ローマ軍団やコロセウムの壮観に涙した方も多いだろう。
 しかしこの種の映画の全盛期である5、60年代には、そうした技術はなく、登場する建築物はすべて実際にセットを組み、大量のエキストラを動員して作られたのである。今回ご紹介する『ローマ帝国の滅亡』は、スペインロケによる巨編で、往時の大作の中でも屈指の作品である。時代も内容も『グラディエーター』とほぼ重なるので、見比べてみるのも一興であろう。そのあらすじは……。
 二世紀後半、五賢帝の一人に数えられるローマ皇帝マルクス・アウレリウスはドナウ川の前線でゲルマン人と対峙していた。皇帝は諸民族との平和共存を求め、属領すべてに市民権を与える理想を持つが、心配は長子コモドゥスが酷薄で世継ぎの器にないことだった。悩んだ皇帝は、コモドゥスの親友の軍司令官リヴィウスに帝位を譲ろうとするが、このことで兄弟同然に育った二人には亀裂が生まれる。
 一方、危機感を抱いたコモドゥス側近は密かに皇帝を暗殺。真相を知らないリヴィウスは、友情からコモドゥスに継承権を譲るが、ローマに凱旋したコモドゥスの過酷な圧政に、東方属領には大規模な反乱が……。先帝の理想を継ぎ、ゲルマン人との講和を進めていたリヴィウスは呼び戻され、パルティア(劇中ペルシア)の大軍と結んだ反乱軍を撃退する。しかし反乱諸国の市民の大量処刑や都市破壊を強要するコモドゥスにリヴィウスは激怒、雌雄を決すべくローマへと進軍する……。こうした流れに、アウレリウスの娘でリヴィウスを愛するルセラ、コモドゥスに影の様に付き従う老剣闘士、アウレリウスの顧問でその理想に命を賭けるギリシア人哲学者らが絡む。
 ローマが絶頂を過ぎようとする瞬間に、その滅亡への過程をシンボライズするこの作品、興行的には大失敗に終わった。リヴィウス役のスティーブン・ボイドは、こうした巨編の主役には貫禄不足で、演技も平凡であった。何よりも全編に漂う陰鬱な雰囲気が、多くの観客にはうけなかった。しかしそうした欠点を差し引いて余りある魅力がこの作品にはある。アウレリウスに扮したアレック・ギネスやコモドゥス役のクリストファー・プラマーの印象的な演技。映画史上最大として話題になったローマのオープンセットと、そこに繰り広げられる壮大な凱旋シーン。渓谷を見下ろす山間の道路を縫っての戦車競争。ローマ兵が楯で囲んだ即興の決闘場での一対一の死闘。鬱蒼とした森林地帯から突然姿を現わして襲いかかるゲルマン人。そしてクライマックスのローマ軍と東方反乱軍の大決戦シーン。エキストラとして参加した、フランコ政権下のスペイン兵8000人と馬1500頭が繰り広げる壮絶な光景は忘れがたい迫力で、地響きを立てて押し寄せる人馬の質量感はCGでは到底表現不可能だ。そうしたスペクタクルの傍らに、北の辺境ではショボくれて焚火にしがみつき、敵前逃亡による処刑をうちひしがれて待ち、金貨をばら撒かれてはたちまち戦意を無くす、等身大のローマ兵の描写もある。
 帝国の維持に奔走したローマ軍団の苦闘を偲び、作品に投入された当時の映画人のとてつもないエネルギーを体感していただきたい。でも日本語のタイトルはフライングだ。

(文=竹之内レギオ)

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【第3回】 『七人の侍』 (1954・日本)

誓い

発売・販売元:東宝
作品名:七人の侍 (2枚組)
監督:黒澤明
価格:¥8,400(税込)DVD発売中

 良い戦争映画の条件とはなにか。
一、敵が強いこと。二、「正義」に説得力があること。三、主人公は、力よりも知恵と勇気で戦うこと。四、戦いの論理と平和の論理〔または、軍と民〕が鋭く対立すること。五、健全で解かり易いヒューマニズムを持っていること。六、バイオレンス・シーンに説得力があること。
 しかし、こう書くと戦争映画って難しい。ドラマは対立構造でダイナミズムが生まれるが、そもそも「軍の論理」なんて良くわからない。だから、往々にして好戦的な軍人や、人の気持ちが理解できない新聞記者といったステレオ・タイプ化された登場人物が出て来て感興を殺いでしまう。どうやら、ヒューマニズムとアクションは両立させることが至難の技らしく、反戦映画の傑作は、おしなべてアクション・シーンが下手だ。例外は『プライベートライアン』と岡本喜八の『地と砂』ぐらいか?
 さてここに、戦争映画の条件を全て揃えた傑作あり。映画史上不朽の名作『七人の侍』である。
 まずは、その一。敵は「野武士四〇騎」。これは「百姓」の視点からしか描かれないため、ものすごく悪くて強そう。その二、困っている人を助けるんだからまさしく単純明瞭な正義。戦国時代の農民は、本当はこうでは無いのだが、映画って大衆娯楽なのである。
 そして三。勇気はともかくとして、「知恵」=戦術や訓練の部分は群像劇の場合、説明的で冗長になり易いのだけれど、黒澤明はこうした描写が天才的に上手い。ついでに主要キャラクターの紹介までおこなう。
 四。離れの三軒家を放棄するか否かの対立と、「おまえら百姓をなんだと思ってやがる」から始まる三船敏郎の長台詞が有名ではある。だけど筆者が好きなのは、野武士に刺された長老(高堂国典)の嫁が、子供を三船敏郎に渡して息絶えるシーン。志村喬は、「よくぞこの傷でここまで……見事」と、言うことがいかにも侍=軍人。三船の方は「こいつはおれだァ」と身悶えして泣く。このシーンは「戦災孤児」という言葉が生きていた上映時(昭和29年)を考えると、大衆娯楽の条件である「同時代性」の面からも名シーンといえる。
 五は、津島恵子と木村功の恋愛。そして緻密な日常描写。ふつうのシーンをしっかり描くことによって、観客は非日常な世界(時代劇だから)にも感情移入できるのだ。
 最後の六。これはいうまでもなく、この映画の最大の見所であろう。馬上から射られる矢。折れる刀(実際は多くの場合、刀毀れして曲がる。だからリアルではなく説得力)。徒歩対騎馬の戦闘。土砂降りの雨。バイオレンス爆発である。
 こうしたシーンや、戦闘準備のシーンが、いかに説得力を持っていたか。その防衛戦術の確かさに、映画を見た自衛隊(当時は警察予備隊)が、どこで教範を入手したかと聞きに来たという伝説がある。また、マレー戦で勇名を馳せた佐伯静雄元少将が、「戦は、進むときも走る。退くときも走る。走れなくなったときは死ぬときだ」という台詞に、「戦争の真実」と感心したという話もある。
 しかし、『七人の侍』にこんな評価をして良いのだろうか。ま、そこに全てがあるのが、古典の古典たる所以ではあるから良しとしよう。

(文=馬庭次郎太)

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