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THE WAR MOVIE セレクション

【第20回】『ラスト サムライ』(2003・アメリカ)

『ラスト サムライ』

作品名:ラスト サムライ(2枚組)
発売元:ワーナー・ホーム・ビデオ
価格:DVD¥3,980円(税込)/Blu-ray¥4,980円(税込)

 ハリウッド映画のジャンルとして、例えば「アーサー王」や「ロビンフッド」などをモチーフとした歴史ファンタジーともいえるジャンルが存在するが、本作も明治維新直後の日本を舞台とした歴史ファンタジーである。
 物語は、先住民との戦いで心に傷を負ったソルジャー・ブルー(騎兵隊)のオールグレン大尉(トム・クルーズ)が明治新政府の軍事顧問として日本を訪れ、紆余曲折の末、明治維新に貢献した勝元(渡辺謙)率いるサムライ達の反乱軍と共に戦い、自分を取り戻し、大切な何かを見つけるというもの。
 ま、ある意味、笑っちゃう設定なのだが、これが面白い。いや、当時の戦闘の本質をつく描写がけっこうあるのだ。
 さて、そうしたシーンの特筆すべき点。
 1つは、政府軍の徴集兵が少しずつ兵士らしくなるところだ。最初の戦闘シーンでは恐怖に駆られて、てんでに発砲するのだが、最後の戦闘では、4列側面縦隊から、中隊横隊へと鮮やかに展開する。帝国陸軍(*1)格好良すぎ。
 一方のサムライたちは、その戦術の見事さである。心理的なトリックで政府軍を誘い込み(この結果、政府軍は捜兵も出さずに戦場に突入する)、隘路で後続を断ち切り、反斜面を利用して伏撃。前衛を叩きつぶすと、自らの損害に斟酌せずに、政府軍の戦闘力の骨幹である砲兵陣地へと騎兵をもって進襲する。それも陣地翼側(*2)を狙ってである。
 ちなみにカットされたシーンには、勝元がオールグレンに新型野砲の発射速度を聞くシーンがある。つまりサムライたちは、勝つための計算をしていたのである。戦闘のプロなのである。
 しかしながら、その計算も新兵器ガトリング・ガンの前に脆くも崩壊する。
 軍事史的に見ればこの時代、産業革命(それは近代市民社会の所産でもある)による火器の威力増大で従来型の突撃が不可能となっていた。死を賭した戦闘行動を躊躇なく行える――そのための精神文化を持つことで、社会の上位に位置していた戦士(トレーロ)階級は、洋の東西を問わず滅びゆく存在だったのだ。
 と、筆者に考えさせる(妄想させる)素晴らしい戦闘描写なのである。
 さすが『グローリー('89)』で「決戦射撃距離」の概念を映像化して見せたエドワード・ズウィック監督。
 ところで、戦士階級を叩き潰し、万人に平等な世界を創った近代市民社会、もしくは工業化社会とは、その成員に決して優しくない社会でもある。「疎外感」というビョーキがそれ。そうした場合、人は「癒し」を求めて「前近代」に回帰するらしいのだが、現代アメリカ人の場合、それは、古典的な戦士集団であるネイティブ・アメリカンの世界に求める場合が多い。よく言われているように、『ラストサムライ』はその意味で『ダンスウィズウルブス('90)』に連なる映画なのである。
 思えば、アメリカの国勢調査報告で「フロンティア・ライン」の消滅が宣言され、太平洋の彼方への進出が始まったのが1890年。ラストサムライとほぼ同時期。それから約1世紀で、我らがサムライは、アメリカ人の「癒し」の対象となってしまったのだ。ということで、最後ばかりはちょっぴり「攘夷」。

(文=馬庭次郎太)

*1 だけど最後のシーンは格好悪すぎ。土下座するなよ。
*2 陣地翼側を狙って=これは筆者の深読みで、監督はガトリング・ガンに掃射されるシーンを格好良く撮りたかったのだろう。

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【第19回】『バトル・フォー・スターリングラード』(1975・旧ソ連)

『バトル・フォー・スターリングラード』前編

『バトル・フォー・スターリングラード』後編

作品名:バトル・フォー・スターリングラード
発売元:(株)彩プロ
販売元:(株)ファインディスクコーポレーション
価格:各巻¥500(税込¥525)
© Mosfilm Cinema Concern, 1975

 ドイツ軍の夏期大攻勢「ブラウ」作戦が開始されてから1か月後の42年7月、主人公パーヒンが所属するソ連軍のとある歩兵連隊は、迫り来るドイツ軍の猛攻を受け止めるべく、ドン川周辺で過酷な防御任務に赴いた。ドイツ空軍の猛爆を堪え、襲いかかる戦車部隊を対戦車ライフルとモロトフ・カクテル(火炎瓶)だけで迎え撃つ連隊は、戦うたびに損耗していく。後退中、コーカサスの住民から「どこまで逃げる気だ」と非難されつつも、戦い続ける連隊の行く先は、さらに過酷な戦場であるスターリングラードだった……。
 この作品は、ドイツ軍の「ブラウ」作戦の初期までをベースとした物語で、スターリングラード戦の前で終わっている。だが、この映画ほど、生身のソ連歩兵一人一人を描いた映画は、おそらく西側には存在しないだろう。この作品は「人間としてのソ連歩兵」が、西側の人々の視点ではなく、ソ連の人々の視点によって緻密に描かれているのだ。
 川で獲ったエビの塩ゆでを今まさに食べようとしたその時、前進しなければならなくなり、「工兵部隊の音が止んだ……エビはあきらめろってことかよ……」と落胆する場面(ソ連軍では食糧事情が充分ではなかったため、仲間同士、自分たちで調達してきたものを入れた鍋を囲んで、自炊することが多かった)や、塹壕で冗談を言い合い、大笑いする場面(こういうシーンはアメリカの戦争映画によくあるが、女と下ネタの話題が良くできていて、見ているだけで楽しくなる)など、戦場における兵士の描写が丁寧に織り込まれている。また、お調子者だが連隊の要として活躍するロパーヒンが、戦友のため村の裕福な未亡人に夜這いをかけて懐柔し、食糧を調達しようとする場面などは、「戦友愛」と「おのれの欲望」を満たすというギャップを一石二鳥で解決していて面白いが、この場面は、小隊長とロパーヒンの掛け合いや、翌朝、ロパーヒンを「よう、アレクサンダー大王、昨日の晩はどうだった?」と茶化す戦友のシーンにも注目されたい(なぜアレクサンダー大王と言われたのかは、実際に見てご確認下さい)。
 もちろん、戦争は過酷だ。たこつぼに馬乗りになったドイツ戦車に塹壕ごと潰される兵士や、激しい航空攻撃の後、そこら中の塹壕から、のそのそと頭を上げて現れる歩兵の群れなど、歩兵の悲惨さがうまく描かれている。「迫まり来る鋼鉄の壁を生身の人間が受け止める」ということが、どれほど恐ろしいことかを感じさせてくれるのだ。
 あと、歩兵のやることとは何か、ということがよくわかる。その答えは「歩き、地面を掘り、銃を撃ち、そしてまた歩いて地面を掘る」、その繰り返しだということ。冒頭、たこつぼを各員が掘るシーンがあるが、アメリカ映画などでは普通、省略してしまう場面を、時間をかけて描いている。「この地面、瓦礫ばっかりだぞ」と不平を言いながらも、ひたすら堅い地面を掘るのは、その掘った穴に自分の命を託すことに他ならないからだ。
 確かにソ連映画特有の冗長さはある。正直いって、観賞前に筆者は2時間40分という上映時間を果たして堪えられるか自信がなかったが、楽しみながら最後まで観賞できた。それどころか、逆に「もう2時間40分、経ったの?」と驚くほど、熱中した作品だったといえる。生身のソ連兵と歩兵の苦闘を描いたこの作品、ぜひご覧下さい。

(文=バイオ大森)

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