映画好きの編集者がリレー形式で、戦史を題材にした映画をご紹介するという、雑誌『歴史群像』の名物コーナー。記念すべき第1回は、2000年7月発売の「夏-秋号(No.43)」に掲載されました。
【第30回】 『ウィンター・ウォー―厳寒の攻防戦―』(1990・フィンランド)
作品名:ウィンター・ウォー
―厳寒の攻防戦―
発売元:(株)彩プロ
販売元:ポニーキャニオン
価格:DVD ¥3,990(税込)
北欧の小国・フィンランドの領土あるカレリア地峡の割譲やハンコ岬の租借を要求したソ連は、それが拒絶されるやいなや、1939年11月30日、フィンランド領内に雪崩れ込んだ。「ド・フィン戦争」の始まりである。
圧倒的な戦力を投入したソ連軍の勝利は間違いなし、と思われたが、稚拙な戦術や冬季装備の不足の他、フィンランド軍の必死の抵抗もあって損害を重ねる。結局、1940年3月12日、当初のソ連側の要求を満たした形で和平条約が結ばれたが、小国相手に、ソ連軍は20万人(1993年の公刊資料では33万人以上)という膨大な死傷者を出し、赤軍の面目は丸つぶれとなってしまった。
今回紹介する『ウィンター・ウォー―厳寒の攻防戦―』は、日本人には馴染みが薄いこのソ・フィン戦争における戦いを、フィンランド軍兵士一人一人の視点から描いた映画である。
物語は1939年10月13日、すなわち開戦のひと月半前から始まる。主人公マルティら、今まで一般市民として生活していた人々が招集されて装備を受領し、前線に送られていく過程が淡々と、しかし克明に描かれていく。一見すると冗長なシーンだが、これは後の戦闘場面への、一種の伏線ともなっている。
というのも、召集されたばかりの時は、移動途中で現地の女性に“夜這い”をかける者がいたり、ラジオから得た噂話に花を咲かせるなど、市民兵ならではののんびりした雰囲気、いうなれば「シャバっ気」が兵士たちの顔から伝わってくる。
だが、いざ戦闘が始まり塹壕戦が続いていくうちに、兵士たちの表情が変わっていくのだ。顔に恐怖や疲労、または無表情さが張り付いていくのは、メイクアップ技術もあるだろうが、監督の演出や俳優たちの努力の賜といえよう。
そして、この兵士たちの変化を観る者に納得させるのが、激しい塹壕戦の描写である。ソ連軍の砲撃、その後に行われる人海による突撃。そして塹壕内で行われる白兵戦では銃床で殴り、ナイフで刺し、素手で殴り合う……。まさに肉弾戦の「痛さ」というのが感じられる、命をかけた鉄火場が描かれる。
また本作では、スローモーションがうまく使われている。例えば、突撃してくるソ連兵に小銃を一発撃ち、ボルトを操作して次発を装填するという一連の動作が、その兵士の上半身のアップでスローに描かれる。極限状態に置かれた人間は、時間の流れが実際より長く(あるいは短く)感じるともいわれるが、「早く撃たなければ」という兵士の焦りがうまく表現されているのだ。この他にも、爆風で表情がゆがみ、ヘルメットを飛ばされるシーンなどで、スロー映像が絶妙に使われており、個々の兵士に焦点を当てるという、演出の狙いが成功している。
クライマックスでは、白樺の森林から戦車を伴った膨大なソ連軍歩兵が突撃をかけるなど、スペクタクル・シーンも充実しているし、また全編史実に則した正しい考証もされている。例えば、冒頭にも述べたソ連軍の冬季装備不足に関して、実際のソ・フィン戦争では、雪中で目立つ黒色や茶褐色の外套を着用していたことが、ソ連軍兵士の死傷率を高めたとされている。本作でもフィンランド軍兵士が全員白色の雪中迷彩姿なのに対し、突撃してくるソ連軍兵士は目立つ色の外套姿である。さりげなく描かれているが、こうした細かい点も見逃せない。
主人公のいる部隊の部隊番号は出てこないが、制作の際には、実際にソ・フィン戦争に参加した第23歩兵連隊の軍事日誌や同連隊の元兵士たちの証言を参考にしており、戦闘の実相には説得力がある。
最後は唐突に終わり、少々肩すかしの感はあるが、本作はかつて本コーナーで紹介した『バトル・フォー・スターリングラード』同様、生身の歩兵の姿を描いた、迫真の戦争映画と評することができるだろう。
(文=バイオ大森)
【第29回】 『スパルタ総攻撃』(1962・アメリカ)
アメリカで映画『300』が大ヒットだそうである。紀元前480年、ギリシアへ侵攻したペルシア王クセルクセス率いる大軍を、たった300人で迎え撃ったスパルタ兵の戦いを描くアメコミ(グラフィックノベル)が原作だ。日本公開の予告編を見る限り全篇CG処理された、SFバイオレンス・アクションといった感じに見える。悪鬼のような面相のペルシア兵を見れば、子孫を自認するイラン政府が「わが祖先の文明を侮辱する、アメリカが仕掛けた心理戦争」と抗議したのも、あながち的外れではないのかも、と思ってしまう。『300』の出来栄えは劇場で確かめていただくとして、45年前に同じこの「テルモピュライの戦い」をテーマに作られたスペクタル史劇が、この『スパルタ総攻撃』だ。
ギリシア世界の存亡をかけて開かれた会議で、アテナイの政治家テミストクレスは、ペルシアの侵攻に際し全都市国家を鼓舞し団結させるべく、最強のスパルタ軍が先兵となることを提案。レオニタス王率いるスパルタ兵が、山と海に挟まれたテルモピュライの隘路でペルシア軍を迎撃することに決定する。祭礼期間中ということで戦争に反対するスパルタ議会に対し、レオニダスは議会の制約を受けない300人の親衛兵のみを引き連れて出撃。ペルシアの宿営地へ夜襲をかけたり、奇策を弄して再三その攻撃を撃退するが、期待した友軍は来援せず、間道を通って背後に廻った敵に挟み撃ちにされ、最期の時を迎える……。
ドラマ部分では、「勇」を代表する剛毅なレオニダスに対し、政略をめぐらすテミストクレスが「知」の代表としてコントラストを成す。敵役クセルクセスが絵に描いたような暴君に描かれているのはやむを得ないところか(面白いことにレオニダスを演じた渋い男優リチャード・イーガンは、2年前の『ペルシャ大王』ではクセルクセス役を演じている)。
お約束で若いスパルタ兵フィロンとその恋人のエピソードが併行して描かれるが、2人のやり取りは至って現代的でそこだけ浮いている感じ。むしろ扱いは小さいながら、レオニダスと王妃ゴルゴの抑えた愛情表現の方が胸に迫る。スパルタ社会の特殊性などは描かれていないが、その質実剛健な気風は台詞などで表現され、またテルモピュライの戦場では他の都市国家の軍も戦っていたことはちゃんと描かれている。
ギリシア・ロケを敢行し、数千の(現代の)ギリシア兵をエキストラに動員して撮影。現地の風景は素晴らしいが、肝心のテルモピュライが狭隘というよりは広々と感じられるのは少々残念だ。しかし戦闘場面は壮観で、特に終盤、もはや守りきれないと悟ったレオニダス自らが先頭に立ち、楔形の隊形で攻撃に転ずる場面から、勇戦空しく戦死する場面には悲壮感が溢れる。そしてレオニダスの遺体を奉じたスパルタ兵が包囲され、雨霰と矢を射掛けられて全滅する場面は、クライマックスに相応しい壮絶なイメージとなっていた。
テルモピュライで稼いだ貴重な時間で、準備を整えたギリシアはサラミス海戦とプラタイアイの陸戦でペルシア軍を破り、自由を守り抜くことになる。ラストのナレーションでは、「少数でも専制を拒絶した」「その勝利は世界の自由人の勝利だ」と謳っているが、『300』が仮に対イランを意識したものとすれば、「キューバ危機」の年に完成したこの作品は、さしずめ旧ソ連と東側諸国に向けられたものでもあったろうか?
しかしこの作品に関してはそんな政治的主張はあまり感じられない。いささか大時代な表現の中に史劇映画が大衆娯楽として隆盛を極めていた時代が偲ばれる。恐らく『300』よりは、素直に過去へと思いを馳せることのできる本作を、この機会にご覧頂きたい。
(文=竹之内レギオ)
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